[聞く/entre+voir #011]山岸吉郎さん (イルフ童画館館長)〜新たな公共に挑む〜②

 

子供時代から武井作品を見ていれば素晴らしい審美眼が養われる

だからこそ100パーセント武井品だけで展示を行うことが理想

 
 
山岸館長の話は続く。民間で厳しい競争を勝ち抜いてきたからこその、美術館経営と、それに当たる美術館館長への考え方は、これからの新たな公共施設に必要なことだと感じる。つまり淡々と展示業務だけを行っていることではダメだということ。研究し、仕掛け、世間に発信してこ、もう一度その成果は研究に返ってくる。その循環こそが美術館を元気にしてくれる。そして、美術館の館長の仕事であるのだ。
 

◉ところで地域に置ける美術館の役割を山岸さんはどう考えていらっしゃいますか?

山岸 地域の文化・教育振興と、美術教育への貢献という意味では重要だと思っています。岡谷が素晴らしいことは、武井武雄の美術館を作ったことです。岡谷市民にとっては非常に大きなアドバンテージでもあると思います。美術を親しむ契機として武井のような画家は最適です。子供のころから武井作品をしっかりと見ていれば、審美眼が養われ、大人になってから美術鑑賞に関しては充実した生活が送れます。ダ・ヴィンチでもレンブラントでも、ゴッホでもピカソでも楽しく鑑賞できる素地が育ちます。その意味で、この街の子供たちは本当に幸運です。だから、もっと使ってほしい。
私が館長になってから、おかげさまで、多くの方々のご協力を賜わり、入館者が増えました。金沢21世紀美術館の初代館長だった蓑豊さんが、その都市の人口数だけ入ればいいと言われたことを憶えています。岡谷は人口が4万9千人ですね。そこまでは行きませんが、3万5、6千人の入館者はあります。まだまだ満足ゆく数字ではないですが、以前は1万9千から2万2、3千人でしたからまずまずかなとは思っています。
 
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◉企画展の内容についてはどのようなお考えでやっているのですか。

山岸 ここはやっぱり武井武雄の美術館としての基本姿勢は失わないようにしています。バルセロナのピカソ美術館やアムステルダムのゴッホ美術館のように本来は100パーセント武井武雄で行きたいのです。だけどまだまだ難しいし、いろいろな面で戦略的にものごとを考えないといけないと思います。
 イルフ童画館では武井作品を展示する収蔵作品展のほかに年間5本の企画展をやっています。その内容は、まずレジェンドと言われる武井と同じ時代を生きた画家、童話画家の作品展を考えます。そして今の時代、人気の高い童画家・絵本作家の企画展もラインナップには必ず入れるようにしています。それは夏休みに子供たちにたくさん来ていただきたいからです。子供にサービスし、そして合わせて収蔵展示、すなわち武井武雄の作品も同時に鑑賞してもらえるようにしています。また、海外の画家の作品展もできる限りスケジュールには入れようと思っています。芸術性の高い絵画や版画などもスケジュールに組み込みながら、ラインナップを組んでいます。学芸員たちを交えた、私主催の企画会議を月に2回実施しているのですが、来年はどういう展示をやるのか、それをどういうふうに見せるのかなどなど活発な意見を出し合って決めていくようにしています。

◉一方で、毎週のようにワークショップを行ったり、武井が芸術家仲間と結成した自転車の遠乗り会「JAZOO MANIA」を復活させたり、武井がデザインした玩具「イルフトイス」を岡谷工業高校と復刻させたり地域の活動についても活発です。
 
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山岸 私が就任してすぐ、一人学芸員を採用しましたけれど、それはワークショップができる人材を取りたいと思ったからです。期待以上の人材が見つかり、彼女は積極的に毎週行うワークショップに取り組んでいます。もう一人先輩の学芸員がいるのですが、彼女もまたワークショップはもちろん講演会やセミナーなどを行い、館全体を盛り上げています。ただ、美術館は一つの組織ですから、個々の力に依存するのではなく、私も含め「チーム」としていかに行動できるかが重要であると思っています。今は良いチームになっていると思いますし、私は素晴らしい人材に支えられているとも思っています。学芸員や私ばかりでなく、館全体、チーム一丸となって岡谷市の、文化振興にこらからも貢献したいと思っています。
武井自身、児童文化に貢献したアイデアマンでいろいろなことで人生を楽しむことのできた天才でした。「JAZOO MANIA」や「イルフトイス」もその典型的なもので、地域の人びとと共にそれを復活させるのは、私たち、武井武雄の美術館を預かる立場の者たちの務めであります。
 

学芸員をしっかりと管理、育成するのも館長の仕事

組織作りやマネージメントに長けた人がその任に就くべき

 

◉お話を聞いていて、山岸さんはいわゆる美術館の館長のイメージとは少し違う気がします。館長が直々に営業もされたり、活発にことを動かしているのですね。


山岸 皆さんは美術館の館長にどんなイメージを持っておられるのでしょう? 最近は美術館にお客があまり入らないとよく聞きます。たぶん組織としての充分機能していないためだと思います。美術館も組織であることを忘れてはいけません。公立館の館長に、大学の先生や画家を名誉職みたいな形で、非常勤でお飾りのように据える行政が多くあります。私は何も分っていないなと、活気のない、おざなりの展示しかしていない大きな公立館に行くと、よく思います。
美術館の館長は、当然、館の所蔵する美術作品のこと、日本並びに世界の美術史の全般のこと、あるいは美術館や博物館が何のためにあるのかなど一通り知識として持たないといけません。まずそれがベースです。同時に、これがもっと重要だと思いますが、組織作りやマネージメントに長けた人がその任に就かないといけません。確かに公共施設は営利のためにあるわけではありません。東京の大きな美術館でも組織はバラバラで、学芸員が勝手な、独りよがりの展示をしている話をよく聞きますけど、学芸員をしっかりと管理、育成するのも館長の仕事です。その意味で、マネージメントをする館長が人事権や予算の執行権などの権限と責任を持って活動しないと、美術館などはうまく運営はできません。数値管理もできない人が館長をやるべきではありません。ほかの人に予算管理などをすべて任せればいいとよく聞きます。そうなると責任の所在が不明確な無責任な組織になります。館長と行政の職員と、どっちに管理者として責任があるのか、不明瞭な美術館・博物館をよく見かけます。多くの公立館によく見る現象です。私は決して有能なマネージャーではありませんが、この職に就いたとき、そして今もそうですが、美術館の館長として、また管理者として、責任を持って対応していこうと心掛けています。そのためには、今も日々勉強を怠らないように努力はしています。

◉なるほど、それはそうですよね。

山岸 だから童画館の館長になったときに最初に思ったのは「組織」として機能させようということです。情報は全員でシェアするけれど、組織としての階層を持つことも大事だと思っています。そして館長が館長たる責任と義務に基づき行動をとらなくてはダメです。そうでなければ館長は一体何をやるのが仕事なのでしょう? 私は確かにいろいろな交渉をしに行ったり、アピールをしたり、武井武雄の講演をしたり、出版社にも定期的に回るようにしています。イルフ童画館は小さな美術館ですから、私がやっています。でも厳密にいえばこれらは館長の仕事ではないでしょう。館長の仕事は美術館におけるマネージメントです。「館長」なのですから。だから館長の大きな役目は、組織としてビジョンを出すことです。今年は何をやるか、この美術館はどういう方向で経営していくかをスタッフに徹底させ、評価に対し責任を負うことです。日本の美術館は制度として、それができていないところが多いと思います。なんとなく無責任な展示ばかりしている。
しかし、履き違えてはいけないことは、美術館はあくまでも文化施設だということです。観光施設だと思って行動していたら、美術館も博物館も必ず衰退し、滅びると思います。美術館にとって一番重要なことは、文化財の保護と、その文化財の調査・研究なのです。その調査・研究の成果を展示という形で市民の皆様に見ていただき、地域の誇りを共有することなのです。当館は今、学芸員は2名ですけど、各々に勉強を怠らないように言っています。イルフ童画館は武井武雄に関しては日本でナンバーワンにならなくちゃいけない。現時点では武井研究はそれほど進んでいるとは言えませんが、ここを中心に発信していくことに今後も努力するつもりです。武井への注目度が集まれば集まるほど、当館の学芸員にとっても学芸員としてステップアップするチャンスであると思います。それに研究をしないとテーマも見つからないし、展示をどう見せたらいいか本当はわからないはずです。美術館は、観光施設ではないので、入館者数にこだわる必要はないと思います。客寄せ的な展示で媚びを売る必要もない。しかし調査・研究もろくにしないで閑古鳥が鳴いているような美術館ではやっぱり困ると思います。そのへんのさじ加減が、ミュージアム・マネージメントの要諦だと私は思います。それに目的・目標の設定も必要です。終わった後のフィードバックが重要です。私は極端な成果主義者ではないけれど、やっぱり結果が出なければどんなに汗を流しても働いたことにはならない。そのためには常に変わることが重要です。
 
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◉そこが公共施設の一番弱い部分ですよね。


山岸 そうですね。僕はチャレンジあるいはイノベーションが大事だと思っています。行政にありがちな前例主義はどうしても私のような民間人にはなじみません。世界は変化しているのですから、こちらも常に変化を起こさなければいけないと思っています。都市が仮に衰退しているのだったらなおさら、手をこまねいて待っていてはいけない。ほかの地方や都市がやらないことをやっていかないと、これからは生き残れなくなると思います。だから武井武雄も世界発信していこうと思います。ブランド協議会の会長として思うのですが、岡谷市には武井武雄以外にも素晴らしいものがたくさんあります。世界に充分アピールできるものが多々あると思います。ヨーロッパには5、6万都市で世界にアピールしている街がいくらでもあります。岡谷も諏訪もそれだけのポテンシャルは充分あると思いますよ。
 

イルフ童画館をできるならばイルフ美術館したい
 
◉例えば、残りの任期が2年ということで武井ブランドについてどこまで推し進めていこうと思っていらっしゃいますか?

山岸 イルフ童画館を、私は欧州で暮らしていたときに何度も訪れたゴッホ美術館やピカソ美術館のような位置づけに近づけたいと思っています。だからイルフ童画館となっていますが、可能ならばイルフ美術館にしたいと思っています。あくまでもここは美術館であることを明確にしたい。だからといって童画をないがしろにするというわけではないのです。童画は武井にとってもちろん代表となる重要な仕事でした。しかし童画にだけこだわると、武井武雄という偉大なアーティストの全体像あるいは本質を見誤る可能性があります。刊本作品や版画など抜け落ちてしまうものが多々あります。また、武井の童画作品の多くは発表の場が主に絵雑誌でした。それらは本当に素晴らしい作品であることは万人が認めるところですが、出版という制約の中で描いた作品群です。一方、晩年には「星曜日」「青の魔法」など芸術を意識した展示会向けのタブローもずいぶん描いています。童画とひとくくりにしていいのかと思うときもあります。かように武井武雄は奥行きの深い、稀有な芸術家であることは間違いありませんが。
 

 
 私は、武井武雄とパウル・クレーを一緒に展示する企画展ができないかなと思っています。その類似性を指摘する人は多くいます。実際武井自身も好きだったようですし、作品を見る限り影響を受けているのは確かです。これは夢というよりも、当然費用が必要となり、実現は難しいかも知れませんが、努力をしてみようと思っています。
 もう一人、日本のシュールレアリズムの先駆け的な存在の古賀春江という、武井と同時代に生きた画家がいます。この人はまさに日本のパウル・クレーと称されるほど、クレーの影響を受けました。武井を語る上で重要な絵雑誌である「コドモノクニ」にも結構描いています。その古賀と武井の比較するのも面白いかもしれません。
 武井武雄は岡谷の素封家の一人息子で、親が反対した東京美術学校に進みました。官立の東京美術学校まで行ったからには、周囲は黒田清輝や藤島武二のような洋画家になると勝手に思っていたでしょう。でも早い時期に油絵画家になる道を自ら閉ざして、童画の道、子供のための絵に向かいます。それは苦渋の決断だったでしょう。時代を考えると、凄い勇気がいったと思います。武井がその道に進んだのは、先に申し上げたように、子供の心に触れる絵を描こうと、子供にこそ本物の絵を提供すべきだと考えたからですが、確かにそうなのでしょう。しかし作品そのものや、その後に書き遺した文章などなどから考えたときに、彼の生来の才能が当時のリアリズムには合わなかったのだろうという感じもします。目に見えない世界、空想の世界、デザインの世界が武井はやっぱり好きだったのではないのでしょうか。武井武雄はまじめで礼節を重んじる人で、藤田嗣治みたいに真っ向から黒田清輝や藤島武二が構築した当時の日本洋画壇のスタンダードを批判したりしないわけです。でも彼らから学んだ世界は自分には向いていないと思い続けた人でした。そんな武井武雄の人生とシュールレアリズムに夢を抱き、志半ばで若くして死んだ古賀春江のそれを比較するのも面白いかもしれない。
たぶん郷里の岡谷という街の持つ旧守性と、異端を作りたくない雰囲気の中で、武井自身にも葛藤があったのだと思います。でも武井武雄にも、特に生活面ですが多少保守的なところもあったように感じます。武井には芸術家としては稀とも言える社会性があったことも見逃せません。
 

武井直也(写真提供/市立岡谷美術考古館)

 
 それから私はいつか武井直也に関しても調べてみたいと思っています。直也は武雄より一つ年上です。姓は同じ武井ですが、たぶん家は武雄に比べ恵まれてはいなかったと思います。でもその高い彫刻の能力を見込んだ支援者がいて、入学は武雄の1年後ですが、東京美術学校へ進んでいます。直也と武雄は、東京にあった諏訪の学生寮「長善館」に一緒にいた時期があります。しかし若いころの二人の交友関係はよくわからない。お互いをどう見ていたのか、そこから各々の実像みたいなものが垣間見ることができる気がします。私は武井武雄の生々しい姿を見てみたいのです。「子供のために本物の絵を提供したい」から童画の道に入ったと武井先生は言われましたが、そして実際そうだと思いますが、でも私のような不純なところが多く、猜疑心の強い凡人には、それではあまりにきれいすぎませんかと思ってしまう。
 人生っていろいろなことがあります。ゴッホにしても、ロートレックにしても、竹久夢二にしても性格には欠陥が多く、だから人生は複雑で、ゆえに素晴らしい作品を後世に残した。やはり、もう少し武井武雄を調べる必要があると思うのです。世界に発信するにはデータが少なすぎるし、あまりにも偶像化されすぎている感がします。負の部分はなかなか出したがらないし、見たがらないけれど、芸術家には負の部分が付きものだと思います。モーツァルトにしても、プルーストにしてもしかりです。そのほうが親しみも湧くし魅力的であると私は思います。芸術家は当然作品でこそ評価されるべきで、その人生は付属的なもので重要ではないと言う人がいます。それもあながち間違いではないでしょう。でも、私は若いころからロートレックが大好きでしたが、彼の作品は、その人生を無視しては真の感動を得ることはできないと思います。
 

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山岸 吉郎 YOSHIRO YAMAGISHI

昭和28年(1953年)生。神奈川県出身。早稲田大学政治経済学部卒業。
長年広告代理店に勤務。
マーケティング企画、マーケット・デザインやマネージメント・システムの構築などに従事。
世紀末を挟んで数年、ベルギーのブリュッセルで暮らす。
その間に、ヨーロッパ各国の美術館を巡り、ロートレックやピカソなど多くの巨匠の絵を直に見る機会を得る。
2010年4月よりイルフ童画館館長。2014~15年に全国8カ所で実施された武井武雄全国巡回展を企画。
現在おかやブランドプロモーション協議会会長を兼任。

 

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