[聞く/entre+voir #009] 原 悟さん (信州上田フィルムコミッション マネージャー)〜上田市新風録〜①

信州上田フィルムコミッション マネージャー 原 悟さん

 

ロケ支援をすることで、養蚕業によるにぎわいなど、

上田市の歴史を知ってもらえることが重要

 

もうずいぶん過ぎてしまったが、2016年6月20日で信州上田フィルムコミッションが設立15周年を迎えた。長野県にも映画やテレビ番組のロケ支援をするフィルムコミッションがいくつもあるが、もっとも長い歴史を誇るのが上田。それを紐解くと、県内を飛び越え、日本各地のどの街のフィルムコミッションよりも映画との深い関わりがある。上田でロケをした作品は、小津安二郎監督のトーキー第一作『一人息子』、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』などに始まり、現在までに劇場公開映画だけで110本を超えるとか。今回は、ロケ支援をするだけでなく、その先に上田の映画文化を引き継ぎ、未来に引き継ぐべく走り回る原悟さんに聞いた。

 

ロケ支援が脈々と続いてきた国内有数の「映画のまち」上田

 
◉15年前、つまりフィルムコミッション(以下FC)ができる前は、上田ではどんな動きをされていたのですか?

 

 「上田で映画を撮りたい」と問い合わせが来ても、特定の窓口がなかったので、市役所の中でもまわりまわって映画好きな人に相談がいく感じだったようですね。でもそれ以前、わかっている限りでは、上田城跡公園で撮影され、1923年に公開された『乃木大将幼年時代』(島津保次郎監督)がロケの始まりといわれています。

 当時の上田はお蚕で非常に潤っていました。蚕種、つまりお蚕の種を作っていた地として大変有名で、豪農の皆さんが稼いだお金を投資して映画のロケ隊を呼び、別所温泉に泊まらせて、美味しいものを食べさせてといった具合に撮影を助けていたようです。上田の蚕種は横浜に運ばれていたので、そこで映画文化に触れて、「上田で撮ってほしい」と今われわれが思っているようなことを考えたのではないでしょうか。

 小津安二郎がトーキーの第1作を、黒澤明がデビュー作を撮り、成瀬巳喜男、溝口健二、今村昌平、山田洋次、鈴木清順と上田でのロケ実績には、錚々たる監督の名前が連なっていきます。当初は豪農の皆さんも単純に楽しみとして映画を支援していたのだと思いますが、今になってみると、その取り組みがとても大きかった。そして戦後、蚕糸業がだんだん衰退してくると、撮影支援の窓口は市役所を経て、FCの時代になっていきます。

 

◉上田は日本映画の黎明期から映画製作を支えていた街なんですね。

 

 そうなんです。そういう話をすると驚かれるけど(笑)。特に市内でも屈指の蚕種製造の町である塩尻地区の人びとが盛んにやっていたようです。ここに馬場直次郎さんという方がいて、いつ、どこで、どういう監督がどんな出演者で撮ったかという記録を全部残してくださっているんです。他所のFCのホームページを見ても、FC設立以降のリストはあっても、それ以前のものはあまりないんです。でも馬場さんやロケを誘致していた方々のおかげで、上田のFCには2000年以前の作品歴が残っているんです。特に馬場さんのスクラップには実にさまざまな資料がきれいに保存されています。五所平之助監督と仲が良かったみたいで、監督との往復書簡なんかも残っています。「西上田駅に女子が何名、荷車何台が用意できています」などと書いてあって、今われわれが行っているエキストラの手配なども当時からやっていらした(笑)。

 
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◉それは興味深いです。

 

 馬場さんのスクラップの中には面白い写真がたくさんあるんです。後に上田へロケを誘致することになる人たちがほぼ勢ぞろいしたものなんですけど、当時のスターだった田中絹代さんを主演に据えた映画を上田でやろうということになったらしく、ここには五所監督、田中絹代さんも写っています。今でいうキックオフイベントみたいなものですね。それが『絹代物語』(1930年公開)です。そこから親交が深まっていって、これは松竹映画なんですけど、ここから立て続けに上田で松竹映画が撮られていきます。当時はまだ狭い業界だったから、「上田に行くといいよ」という話が広まったんでしょう。それからコンスタントに撮影が続いていきます。

 また黒澤明監督が初めて撮った映画の記念写真もありますよ。これを送ってくださったのはロケ地になった本陽寺というところに疎開されていた方らしいんですけど、「みんな気さくで、よく話をしてくれて、戦時中のつらい時期だったけれど、ひと時つらいことを忘れられる経験でした」という手紙を添えてくださったそうです。すごく貴重な写真ですよね。

 上田には撮影支援の歴史があるから、面白いのは「こういう資料があるよ」という昔のロケの情報がFCに舞い込んできたり、「お父さんが亡くなって資料がいっぱいあるから見に来て」とおばあちゃんから連絡があったりするんです。昔は映画が唯一の娯楽だったから、チラシや新聞記事をスクラップしていたり、これはA評価だ、B評価だとか書いてあったり、ひとつひとつつぶさに見ていくと面白いんですよね。皆さん映画がどれだけ好きだったのかすごく伝わってきます。

 撮影に使われた街は数あれど、市民がロケに寄り添って支援し続けてきた街というのはたぶん、日本中を探しても上田しかないと思います。FCの集まりに行ってもそういう話は聞かないですから。京都にしろどこにしろ、撮影はたくさんやってきただろうけれど、そこに上田のように第3者が関わって作品を呼んできているということではないので、それが上田の面白いところ、誇らしいところですよね。

 

◉そういう流れは現在にも受け継がれているんでしょうね。

 

 そうなんです。映画『青天の霹靂』(2014年)では、ひと月半くらいかけて、昭和48年の町並みを市街地につくったんですけど、普通の街ではいやがると思うんですよ。おしゃれな宝石屋さんが、ホッピーと書かれた赤提灯を軒下に提げて商売をするなんてね(笑)。だけどそれを楽しんでくれるのが、上田の人たち。監督の劇団ひとりさんは「こんなに協力的な街はないし、ここが一番撮影しやすいはず」だと上田ロケを決めてくれたし、主演の大泉洋さんも「普通の街だったらこんなに通行止めにしてたら『なにやってんだよ』ってもめたりするんだけど、みんなニコニコして、『がんばってくださーい』とかどんどん言ってくれる。こんな街初めてだ。すべての映画は上田で撮ったらいい」とまでおっしゃってくださいました。でもそれはFCの成果ではなく、昔からロケを見守り支援していく中でこの街に暮らす皆さんに自然と育まれ受け継がれてきたもので、映画はいいものだ、ロケは応援しなきゃ、といった、映画撮影に対する理解、この街固有の映画文化なのだと思っています。上田の人にとって映画はちょっと特別なんです。

 

旧常田館製糸場 五階繭倉庫

旧常田館製糸場 五階繭倉庫

 

◉FCで言えば、ロケ地になるような魅力的な街並みが大事だと思うんですが、こういう建物は残してほしいなどの希望はありますか?

 

 お蚕さんの遺産、養蚕期と言われる大正から昭和初期にかけての建物や風景が残れば、それはうれしいですね。先ほどもお話しましたが、お蚕でうるおったことが映画につながったんです。つまり僕らがロケ支援をすることで、お蚕によるにぎわいがすごかったという歴史を知ってもらえる、そこに一役買えるなと思っています。上田で人気のロケ地というのは養蚕期のころの建物なんです。撮影隊が集中している首都圏には震災もあったし、再開発が激しいから、古い建物はほとんど残っていませんよね。だから、それを求めてくる。それが映像化され、ロケ地が上田であることをPRすると、街の人にも伝わりますから。現代の上田を形づくったのは間違いなく蚕糸業ですから、そのことを市民の皆さんにもっと知ってもらいたいんです。いきなり勉強しましょうというのは堅苦しくなってしまうけれど、映画が切り口になれば入りやすくなりますしね。20代、30代の社会人の皆さんが興味を持ってくれて、これまで何度か勉強会的なこともやりました。皆さんこの街のことに関心があるんですよ。

 街の建物が消えていくことはすごく悲しいし、寂しいとずっと強く思ってきましたけど、今は割と仕方のないことと受け入れられる部分も出てきました。映画『たそがれ清兵衞』(2002年)の決闘シーンを撮った上田城の石垣を移築した旧家・丸山邸も、日本一の木造校舎とも言われた浦里小学校も火災で失って、やっぱり建物をずっと残していくのは想像以上に大変なことなんだと思い知らされました。もちろん残せたらいいなと思うし、自分の立場からできることがあればいいなとは思いますが、日本の古い建物は木造のものがほとんどで、ヨーロッパみたいに石造りではないし、地震も多いし、一瞬にして消えてなくなってしまうこともある。だから無理やり残していくというよりは、私たちの活動を通して建物を使ってくれる人が増えるとか、それを活用したいと思うようなきっかけづくりの一助になればと思っています。でも、「上田映劇」はなんとしても残したいですけどね。

 実は僕のところには不動産屋さんが持っていない、あるいは不動産屋さんには出ていない、ロケ的に見た目のいい空き物件などの情報がたくさんあるんです。だから最近はゲストハウスをやりたいとか、カフェをやりたいとか、ロケとは関係のない話が友人などを介して僕のところにやってくるようにもなりました。数は多くないけれどこれまでに何件か紹介したこともあって、もしそれがうまくいって縁ができれば、今度はそこをロケに使わせてもらうかもしれない。そうやって、正しく古びたものが受け継がれ残り活用されていけばそれはそれで面白いですよね。新しい建物保存の形かもしれない。

 
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