第40回ニムラ舞踊賞に、麿赤兒さん。

 ニューヨークを中心に、欧米各地で活躍した諏訪市出身の世界的な舞踊家、ニムラエイイチ/新村英一(1897〜1979)。ニムラ舞踊賞は、彼の「祖国日本で後進育成のために貢献したい」という意思により、親友であり良き理解者でもあった故・藤原正男さんを通じて託された寄付金をもとに1973年、基金が設立され、賞の運営が続けられてきた。
 この賞は広く日本の舞踊界を対象として、前年までにもっとも優れた成果をあげた舞踊家、舞踊関係者を選出し、ニムラエイイチが生まれた長野県諏訪の地で授賞式を実施している。40回目を迎える今回は、大駱駝艦を率いる舞踏家・麿赤兒に決定し、10月12日に授賞式が行われた。
 

 
 麿さんは「ここに立っているのは何か恥ずかしいですね。新村先生がニューヨークに渡ってご活躍されていたとは全然知らなくて。賞を賜ることになって、不勉強で申し訳なく思います。諏訪の皆さんが新村先生の想いを賞という形でご継承されているということで、これからは何かお手伝いできることがあればと。奈良と並んで伝統のある諏訪にはこういう形でこれたことは喜びです。
 新村先生が当時どういう踊りをされていたのかすごく興味があります。日本人ですから東洋の身体が表れるのは当然ですが、それより諏訪という土地、そういうものの空間が滲み出てくるのだと思います。先ほど映像が流れましたけれど、(私も)年寄りですからシワだらけですね。でもこのシワを大事にして、土方は衰弱体の採集と言っておりましたが、時間漬けにされたたくあんみたいなもの。時間に醸造されて、発酵して、腐ることなく、あと何年くらいできるかわかりませんが、この賞をモチベーションにして頑張っていきたいと思います」とコメント。
 

 
 続くトークショーでは次のように語った。
 「俺は唐十郎と(状況劇場というところで)芝居をしておりました。しかし土方巽と出会い舞踏を知りまして、こういう形でも成立するのかと思い、どんどん芝居の中に舞踏の要素を取り入れていったんです。今までの芝居とは違う別のファクターが加わって、それを増殖させた、そしてとうとうセリフを言わなくなった。それで唐と揉めまして芝居をやめました。唐には申し訳ないことをした。それで踊りを、見よう見まね、舞踏と名乗るのはおこがましいですから『天賦天式』ということで始めたんですよ。始めたころは、麿は宗教の方に行ったらしいぞ、なんだか儀式みたいだぞって言われたものです(笑)。その後も皆さん舞踏、舞踏と言うんですけど、それを違うと否定するのも面倒くさいから、どうでもいいやと。舞台は面白ければいいやと。そうやっていくうちにどんどん古いものを描くようになっていきましてね、一番古いものは宇宙です。地球上における古いものは世界中にいろいろあって、古さの競争はしていてもキリがないんです。だったら35,000年前まで行ってしまえばみんな一緒だろうということでかなり自由になり、今のような表現になっていきました。これまで50本くらい作品はつくったんですけど、ネタ探しでいつでもキョロキョロして歩いていますよ。どこにでも転がっている。舞踏は舞踏の中にない。道端に落っこちているものを見つけるかどうか。それを見つけられるかは俺の能力です」

 

 

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