[聞く/entre+voir #033]木内 真由美(長野県立美術館 学芸員)

《実のプサイの部屋》1964年

長野県立美術館 学芸員
木内真由美

 

「オブジェを消せ」と啓示を受けた松澤宥は

自分の考えをどうわかってもらうか、どう伝えるかを模索し続けた

世界の美術史でも重要なコンセプチュアル・アーティスト

 

長野県立美術館は新装オープンして以来、さまざまな展覧会を精力的に開催し、活気あふれる空間を創出している。2020年2月2日からは、下諏訪町生まれで、この地から国内外に独自の表現を発信しつづけたコンセプチュアル・アーティスト、松澤宥(1922〜2006)の回顧展「生誕100年 松澤宥」を開催する。松澤宥生誕100年にあたる2020年2月2日は、本来なら休館日。そこに初日をあてる心意気は、地元民としてはうれしい限りだ。担当学芸員の木内真由美さんに話を伺った。写真提供:長野県立美術館

 
 

実在する「プサイの部屋」にまさか入れるなんて考えてもみませんでした

 
 

木内真由美さん

 
 

――松澤宥さんの回顧展について、動き始めたのはいつごろのことだったんですか?

 
木内 2016年に茅野市美術館で『その文脈と諏訪 松澤宥・辰野登恵子・宮坂了作・根岸芳郎』展があって、シンポジウムに私も出席させていただいたんです。その時に「一般財団法人松澤宥プサイの部屋」の方々も出席しておられ、松澤家の皆さんを紹介していただきました。そこからいろいろなことが始まりました。財団でも生誕100年に何か大きな展覧会ができないかとお考えになっていて、漠然とですが一緒に何かやりたいですねというお話をさせていただき、まずは研究から始めました。その次の年は、財団の方々と協力して松澤と一緒に活動した美術家や当時を知る批評家の方に松澤宥について、そして当時の展覧会の様子などをインタビューさせていただきました。そのころから下諏訪に通い始め、2018年度には下諏訪町を中心に松澤宥の芸術の普及活動に取り組んだり、信州大学工学部建築学科寺内研究室と一緒にプサイの部屋の調査も行いました。松澤のアトリエであるプサイの部屋のことは知っていましたが、今でも実在していて、まさか自分がそこに入れるなんて考えてもみませんでした。

 

――そのうちに、徐々に生誕100年展が現実味を帯びてきたんですね?

 
木内 そうですね。幸運なことに、ほぼ同時期に長野県信濃美術館を建て直す流れがあり、有識者会議の中でも新美術館では現代美術にも力を入れることが提案され、長野県には松澤宥がいるのだから紹介した方がいいという意見も出ていました。この展覧会は別の方向からも並行して動き出していたわけです。

 
 

松澤宥《人類よ消滅しよう行こう行こう》1966年、印刷・紙、個人蔵

 
 

――美術業界の知名度に対して、地元では一般にまで知られた存在ではないかもしれません。松澤さんについて改めてどんなアーティストだったか紹介していただけますか。

 
木内 松澤宥は大芸術家で、美術業界の誰もが知っている存在です。下諏訪町の生まれで、ユニークなのは、大学で建築の勉強をするために東京に行きますが、就職された後、割とすぐに下諏訪にお帰りになるんです。また留学もするのですが、その数年を除いてずっと下諏訪のご自宅で暮らしていました。つまり下諏訪から世界に向けて美術を発信し、日本を代表するコンセプチュアル・アーティストとして世界で認められ、世界の美術史の中でも非常に重要なアーティストとして位置づけられています。ご自宅にあるプサイの部屋というアトリエも有名で、そこで生涯、芸術家としてアイデアを練り、芸術活動をされていました。

 

――コンセプチュアル・アートという言葉は聞きなれないものでもありますよね。

 
木内 多くの皆さんがアートと聞いて想像されるのは絵画など平面作品や彫刻などの立体作品でしょう。これらは形や色を中心とした、目で見る美術です。それに対してコンセプチュアル・アートとは言葉やアイデアが表現になっています。コンセプトは概念とか観念と訳されます。松澤は1964年に「オブジェを消せ」という啓示を受けたとご自身でおっしゃっていて、それまでの絵画やオブジェから、文字による作品を発表するようになります。印刷物(文字による作品)やパフォーマンスを発表するようになったんです。松澤は、ご自分の考えをどうわかってもらうか、どう伝えるかを模索された続けたんですね。
 松澤のもう一つの顔は、下諏訪に戻られてから諏訪実業高校の夜間部で数学の先生をされていて、定年後もしばらく勤められていらっしゃいました。学校の先生をされていた傍ら、というにはあまりにもすごい実績を残されたわけですが、そういう意味では非常にユニークな存在です。
 また松澤の人間力もあると思うんですけど、たくさんの方と交流がありました。皆さんがご存じの方としては、草間彌生さん、英国のギルバート&ジョージ、日本を代表する美術評論家の滝口修造さんでしょうか。

 

「生誕100年 松澤宥」は松澤の人生をたどっていくような展覧会

 

――今回の展覧会の概要を紹介していただけますか。

 
木内 松澤宥はコンセプチュアル・アーティストと紹介しました。生前はいわゆる文字による作品が中心に紹介されていたのですが、今回はそれ以前に制作されていた絵画やオブジェ作品も含めて人生をたどっていくような展覧会になっています。これは滅多にない機会になると思います。全体で5章編成で、芸術家としての原点である建築や詩、美術文化協会や読売アンデパンダンなどに出品された絵画やオブジェ、啓示を受ける前後から、その後の国内外で発表された言語による作品やパフォーマンスまで、多彩な作品と活動を紹介します。

 

第1章 「建築、詩から絵画へ」
 松澤さんは製糸業の旧家に生まれ、最初は詩をつくります。それと同時に旧制諏訪中学、今の諏訪清稜高校を卒業すると、建築を学ぶため早稲田大学工学部に進学します。大学卒業時の謝恩会では「私は鉄とコンクリートの硬さを信じない。魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい」と、建築を学んだにもかかわらず建築を否定するようなことを言うんです。卒業論文も建築の図面と一緒に詩的なエッセイを書いています。だから卒業について賛否両論あったみたいです。ただ有名な設計事務所に勤められ、戦後すぐでしたので、宿舎みたいなものをつくる監督をされました。その後、下諏訪に戻って諏訪実の先生になりました。松澤の表現は詩から始まりましたが、叙情的なものから、徐々に内容よりも文字や記号で伝えていくものに興味が移っていきます。シンボルポエム、記号詩というものです。その理由は日本語で書いた詩は日本人にしか伝わらないからと、誰にでも伝わるのはどんなものなのかを追求し、記号に至ったようです。その後、1955年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招聘され、翌年から57年までコロンビア大学で学びます。

 
 

松澤宥《プサイの鳥4》1959年、パステル・クレヨン・蝋・かまどのスミ・紙、個人蔵

 
 

松澤宥《のぞけプサイ亀を翼ある密軌を》1962年、木・紙・ガラス・金属・写真・デッサン、個人蔵

 

第2章 『1964年「オブジェを消せ」――観念美術に向かって』
 前衛芸術家が絵やオブジェをたくさん出していた読売アンデパンダン展などに松澤も参加します。最初は絵画でしたが、やがて立体作品や印刷物の出品も始めます。例えば第15回読売アンデパンダン展に出品した、今回、展覧会のチラシでも紹介した『プサイの座敷』という作品があります。これはプサイの部屋のアトリエの中から出した物の作品と、印刷物を出しているんです。印刷物の『プサイの座敷』はたぶんどこからどのような順番で読むのかわからないと思うんですけど、真ん中から回していくんですね。2章では、こうした言葉による作品と、読売アンデパンダン展に出品していた絵画やオブジェを紹介します。かなり大型な作品もあって、見応えのあるものになります。また絵画の世界でも大成できたであろうと思わせるような技量も見せています。そして1964年に「オブジェを消せ」という啓示を受けます。当時の代表作と言われる『プサイの死体遺体』では、これからは非感覚絵画をつくっていく、絵画ではなく観念を伝えることを目指すんだということを宣言している作品です。この後いろいろ観念による展覧会、例えば雑誌の誌上での展覧会などを実施するようになっていきます。

 
 

松澤宥《プサイの座敷》1963年、印刷・紙、個人蔵

 

松澤宥《プサイの死体遺体》1964年、印刷・紙、個人蔵

 
 

第3章 『共同体幻想』
 60年代から70年代は、彼の周りにいる作家たちと一緒に活動をしていきます。1969年に長野県信濃美術館で「美術という幻想の終焉」展を行うんですが、これを皮切りに各地でいろいろな展覧会を開催していきます。必ずしもグループのメンバーが一緒に展覧会を開くのではなく、それぞれの人がそれぞれの場で自分の活動をして、それが心の中でつながっている、それが共同体であるというのが松澤の考え方でした。このとき、松澤は下諏訪の御射山に「泉水入瞑想台」をつくります。そこで音会、山式・雪の会座というイベントを行っています。
 松澤はアムステルダムのアートアンドプロジェクトというコンセプチュアル・アートを世界に発信していたギャラリーともつながりを持っていました。そのギャラリーは雑誌を出していて、松澤は3回も特集されています。その後は松澤はメールアート、郵便物による作品を始めて、日本人はもちろん、世界中の人とやりとりをしていきます。そのころの世界とのつながりとしては、ヴェネチアビエンナーレやサンパウロビエンナーレにも出品していて、サンパウロでは賞を取っています。今回の展覧会ではサンパウロビエンナーレに出品した『九想の室』を紹介します。これは松澤の作品を中央の床に置き、その周りをパフォーマンスをしている21人の作家の写真が囲むという展示方法でした。それから1969年に東京で美学校と言って、有名な前衛作家たちが美術を教える学校が開校するのですが、松澤も先生でした。さらに1973年からは諏訪分校ができました。それは諏訪二葉の元女子寮のあるところに教室を設けて授業をしていたそうです。

 
 

パフォーマンス〈九想の室〉1977年、ブラジル・サンパウロ

 
 

第4章 『言語と行為』
 ここではその後のパフォーマンスを中心とした活動を紹介します。今回の展覧会のチラシにもなっている『消滅の幟』は1966年に発表してから晩年まで、パフォーマンスの際にずっと使い続けたものです。またこの幟は世界中で翻っています。これ以外にもいろいろあるのですが、80年代は有名な『量子芸術論』以降、80年問題と言って社会問題を取り上げたりしています。少しずつ形を変えながら、消滅、終末思想を表現しています。

 

第5章 再考『プサイの部屋』
 ここでは松澤の伝説のアトリエを紹介します。等寸大の壁や床を作成し、実物観念的に家を建てまして、6分の1についてはできる限り実物の資料を展示しながら再現します。プサイの部屋で1964年までたくさんのオブジェをつくってきたわけですが、松澤は「オブジェを消せ」と啓示を受けたのは、おそらく自分の中で物質が飽和状態に陥って、それがあるとき観念に変わっていったとおっしゃっています。2018年にこの部屋を信濃美術館が調査をさせていただきました。そのときの画像を使ってVRをつくりましたので、ぜひ体験してください。

 
 

〈プサイの部屋〉2018年11月16日撮影「文化庁平成30年度我が国の現代美術の海外発信事業」の一環として撮影

 
 

――松澤さんは作品を通して何を伝えようとしていたのでしょうね。

 
木内 松澤自身が生涯を通しておっしゃっていたことに「消滅」の思想があります。松澤は大学で建築を専攻していたために、出征しませんでした。しかし同級生は学徒出陣でたくさん亡くなっているんです。そのこともあってか、戦後に復興して物質的にも豊かになっていくことをすべて良しとは思わなかったし、繁栄に逆行するような消滅、終末的な思想があったと思います。それから、もう一つ松澤が大切にしていたことは「精神」「観念」ということでしょうか。生まれたときに目が見えない、これからずっと目が見えないかもしれないという話を子どものころから聞かされて育って、そのことがコンプレックスにもなっていたそうですが、むしろ、それを出発点に、見えない世界、物だけではない精神の世界を非常に大事にするようになりました。
 松澤は「美術とは、仮説を立てて実験することだ、実験そのものが作品で、創造というのは問題提起である」と言っています。現在は消滅の一歩手前の時代である、というのが松澤の生涯通して行った仮説です。そういう松澤の世界観を、物質ではないものを通して、人に伝えるにはどうすればよいか、その実験を繰り返したのが松澤が生涯取り組んだ芸術活動だと思います。そして、観客の皆さんにも、自身の問いかけを受け取り、それについて考えてもらいたいと思っていたと思います。
 「プサイの部屋」の「プサイ」が何かと言いますと、一つはギリシャ文字の最後の文字オメガ「ω」の一つ前の文字「ψ」です。すべてのことは終末に向かっている、世界の状況は終末、消滅の一歩手前であるというのが松澤の考え方。もう一つはサイコロジー(psychology)の「psy」ですが、精神や心という意味もあります。プサイの部屋は、そういうものを表現し続けた部屋ということが言えるかもしれません。

 
 

「ひらかれている」展(長野県信濃美術館)ポスター、1972年、個人蔵

 
 

――木内さんは個人として惹かれるのはどんなところですか?

 
木内 ひと言では難しいですが、私が最初に感動した作品をご紹介します。1969年に長野県信濃美術館で開催された「美術という幻想の終焉」展に出品した『お告げ』という作品です。「今、あなたの心の中に白い正方形を画き、その中になみなみと水を汲んで、喉を潤して下さい」という作品です。今、頭の中に絵が浮かびましたよね? これが松澤の言語による作品です。これがコンセプチュアル・アートということでいいと思います。

 

――何を読むよりスッと腑に落ちますね!

 
木内 そうですよね! それを知ったときに、これってすごいなって思って、私ものめり込んだのかもしれません。きっかけはこの作品だと思いますが、その後、松澤の絵画作品や展覧会での展示方法やパフォーマンスのビデオなども見るようになり、作品の美しさや豊富なアイデアにも魅かれるようになりました。

 

――海外で高い評価を得たのはどんな理由だったのでしょうか?

 
木内 松澤が言語による作品によって海外で知られています。松澤はアメリカに留学をしていたので英語が堪能でした。そのため、展示や発表の場に合わせて、発表する土地の人が理解可能な言語で作品を発表できました。言語による美術で、なおかつ、英語という世界の共通言語で活動できる。そういう意味では海外でも受け入れられやすかった。また、1970年代には、ベネチアビエンナーレ、サンパウロビエンナーレに日本の代表として参加しているんです。ベネチアもサンパウロも美術界におけるオリンピックのようなもので、各国の当代の代表者が参加するもの。松澤がそこに日本代表としてかかわっていることで海外からの注目度は上がったと思います。
 松澤の言語による作品は、仏教思想と深いかかわりがあります。東洋思想を背景に持つ作品を制作しているという点でも、海外作家との差別化がされ、海外での評価は高かったのだろうと思います。

 

――最後に鑑賞する人へのアドバイスをお願いできますでしょうか。

 
木内 とにかく時間をつくっていただいて、ゆっくりご覧いただくのが一番だと思うんです。松澤の作品は、言葉を読めば読むほどわかるから。初めに字が小さくて読めないぞと思ったら終わりです(笑)。特に1964年あたりのものを熱心に読んでいただくと、とても楽しいと思います。そのころのものには、松澤にとってオブジェとは装置で、チラシ(文字による作品)は取り扱い説明書と説明しています。鑑賞の仕方、チラシの読み方の順番など、松澤流の法則があります。その法則に従って、鑑賞を進めいきます。
 松澤は、自分の伝えたいことを、形や色のある絵画や彫刻というものではない作品で伝えようとします。鑑賞者の心の中に、それぞれのかたちーー必ずしもかたちはないかもしれませんがーーそうした美術作品をつくってもらおう、ということを考えていたのだと、私は思っています。今回の展覧会では、松澤の作品を実物を見られる貴重な機会ですので、ぜひ会場でご覧いただきたいと思います。
 
 
今回は、長野県立美術館を代表して木内さんにお話を伺いましたが、展覧会の成立はもちろん、そこに至るまでの調査、研究にも多くの方々の協力があるものです。ここでは多くは割愛してしまいましたが、木内さんのお話の中には、そのことが感じられる言葉がよく登場していました。現在も日々、多くの人たちが携わって調査の進んでいる松澤宥さんとなればなおさらのことだろうと想像します。これからも新たな発見がいくつもいくつもなされることでしょう。楽しみにしましょう。

 

 
「生誕100年 松澤宥」
■開催期間:2022年2月2日(水)~ 2022年3月21日(月)
■会場:長野県立美術館 展示室1 ・ 展示室2 ・ 展示室3
■休館日:毎週水曜日(ただし、2月2日・2月23日は開館)、2月24日(木)
■開館時間9:00~17:00
■観覧料:一般800(700)円、大学生および75歳以上600(500)円、高校生以下無料
※()内は20名以上の団体料金
※本館コレクション展および東山魁夷館との共通料金=一般1300円、大学生および75歳以上900円
※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保険福祉手帳をお持ちの方と、付き添いの方1名は無料
 
 
 

インフォメーション