[聞く/entre+voir #032]林 聡一&那波佳子(『松澤宥生誕100年祭』)

2002年2月2日2時22分/ 80歳の誕生日に行った国立近代美術館でのパフォーマンスの様子。撮影:長沼宏昌

『松澤宥生誕100年祭』
林 聡一&那波佳子

 

人生、生き方が本当に面白い松澤さんの実績の検証はすごく大事

その松澤さんのことを地元の皆さんに知っていただきたい

 

下諏訪町出身、20世紀の日本の現代アートを引っ張ったアーティストの一人、松澤宥(1922〜2006)。「日本観念芸術/概念派の始祖」と評された松澤が、2022年2月2日で生誕100年を迎えた。長野県立美術館では同日より回顧展が開催されているが、地元・下諏訪では『松澤宥生誕100祭』がスタートした(〜3/21まで)。諏訪を起点として「ローカルかつグローバル」に生き、「人類よ 消滅しよう 行こう行こう」と表現しながら、一方で多様な仲間たちと人生を全力で肯定的に生きた松澤から学ぼうという思いが企画には込められている。『生誕100年祭』の実行委員長を務めるSuwa-Animism(スワニミズム)美術部の林聡一(はやし・そういち)さん、同事務局や広報等を担当し現代アート、建築、カルチャーに関わるコミュニケーション業務全般を行っている「リレーリレーLLP」で海外広報を担当する那波佳子(なわ・よしこ)さんに話を聞いた。

 
※好評につき「まちなか展覧会」の会期が全施設3月21日(月・祝)までに延長。また、コロナウイルスの感染状況を踏まえ、トークやパフォーマンスイベントのスケジュールに変更があります。詳細は公式サイト『松澤宥生誕100年祭』にてご確認ください。
 
 

松澤宥生誕100年祭メインビジュアル

 
 

下諏訪で文化活動をして世界とつながっているところが面白い、すごい

 
 

 
 

――林さんは広告代理店に勤めていらっしゃったんですよね?

 
 はい、55歳のときに早期退職制度で退社しました。

 

――Suwa-Animism(スワニミズム)美術部にも所属されているそうですが、アートとはどんなかかわりがあったのでしょうか?

 
 職業としては別にないです(笑)。でも高校時代は美術部と軽音をやっていました。ライターとしても活躍しているスワニミズム事務局長の石埜三千穂くんが高校の同窓で、仲も良く、一緒にロックバンドをやっていたんです。20代後半ごろからは大晦日に二年参りに行くと、秋宮の近くにある彼の家に飲みに行くわけですよ。するとお兄さんの穂高さんもいて、「諏訪はこういうすごい場所なんだ」という話を聞かされたんです。そのうちに三千穂も東京から帰郷して、諏訪の研究を始め、さらにスワニミズムを立ち上げていきます。スワニミズムは主に諏訪信仰などの歴史、文化を研究する同好の士の集まりです。僕がスワニミズムにかかわったのは石埜兄弟のせいです(笑)。彼らの諏訪信仰の研究への熱意はとてもじゃないけど真似できないし、スワニミズムの本も一生懸命に読んでいますが半分もわからない。でもリスペクトはしていて、そうこうするうちに入ることになったんです。僕はディープさは大事だけど、普通の人にもわかるように伝えていくことも大事じゃないか、そういう役目なら僕にもできるよという話をしていましたね。『松澤宥 生誕100年祭』については、スワニミズムの美術好き美術部と、協力してくれる皆さんで活動を行なっています。

 
 

 
 

――そこから「生誕100年祭」に携わることになるわけですか?

 
 松澤さんのことは高校時代から名前は知っていましたし、ゆかりのある先生が諏訪二葉にいらっしゃった。けれど本格的に勉強を始めたのは、穂高さんやスワニミズムの松澤さんを直接知っている先輩たち、後にスワニミズム会員になってくださった美術家で、松澤さんの研究者であり、松澤さんの財団の理事でもある嶋田美子さんたちが2017年に「諏訪力」という講座でお話しされたときに、「この人、面白い」と思ってからです。僕でもどこかで役に立つならと思っていたら、ちょうど生誕100年が来て、長野県立美術館が回顧展をやってくださるのに地元の下諏訪で何をしないわけにもいかないだろうということで始めたということです。

 

――「松澤宥生誕100年記念祭サイト」がそのスタートになりました。

 
 そうです。これまで松澤さんの財団がつくっている「プサイの部屋」という松澤さんのことをわかっている人に向けたサイトはあったのですが、初心者にもわかりやすいサイトが実はなかったんです。コンセプチュアル・アートというとなんだか面白くなさそうですけど、松澤さんは人生全体を通してみると本当に面白い。詩から始まって絵を描いて、絵と詩の中間みたいなものをつくって、その後に箱をたくさんつくっていくんですけど、1964年に「オブジェを消せ」という啓示を受けて、そこからコンセプチュアル・アート、観念芸術に入っていく。観念芸術に入った後もいろいろと面白いことをやっています。それを皆さんにわかりやすく見ていただけるものがほしいと思ったわけです。ディープな部分に触れつつも、できる限りわかりやすい言葉で書いていますのでぜひ覗いてみてください。

 

――那波さんはアート関係の広報のお仕事をされていらっしゃるんですよね? 下諏訪に移住されたのはいつですか? きっかけや経緯など教えてください。

 
那波 2019年夏に移住しました。以前勤めていたジャズクラブの先輩が林さんの奥様で、ご夫婦とも音楽や芸術・文化に関して豊富なセンスや知識をお持ちで、時々3人でご飯に行ったりライブに行ったり仲良くさせていただいていたところ、前回の御柱祭のときに「絶対に好きだから!」と林さんのご実家に招かれまして、岡谷の法被を着て実際に御柱を曳行するという、文字通りライフ・チェンジングな体験をさせていただきました。
 仕事柄、世界中の音楽に触れていましたし、父の仕事の都合上、幼少期から多くの国を訪れ、多様な文化に触れていたつもりでした。が、この御柱祭という理解を超えたお祭りの、脈々と守り続けてきた伝統の奥深さと熱に触れ、DNAレベルで血がふつふつ沸き立つような高揚感を覚え、これは完全にやばい祭りだとすっかりやられてしまったわけです。何より、木遣り歌から「郷愁感」のようなものを感じてしまい、いつしか私も木遣りを鳴いてみたいと漠然と思っていました…。おかげさまで今は木遣り保存会の会員として、毎週末練習に励んでいます。

 
 

 
 
 SNSに「男を見るなら諏訪に行け」とか書いていたよね(笑)。
 

那波 ええ(笑)。諏訪人の熱を帯びたエネルギーに元気をもらったのだと思います。音楽業界にいながらアート業界に片足を踏み入れたのが30代前半でした。その後リレーリレーを立ち上げた友人から、海外広報をやらないかと声をかけてもらい、フリーランスで6年ほど活動するうちにオフィススペースを探し始めます。そんなとき、有楽町にある「ふるさと回帰センター」の存在を知り、地方移住を視野に入れるようになりました。都会育ちなので、昔から自然豊かな地方への憧れがとても強かったんですね。せっかくだから田舎で暮らしてみようと思い、御柱の強烈な記憶が残る諏訪へ移住を決めました。
 地域おこし協力隊という選択肢もありましたが、アートの仕事もあるし……と悩んでいたら、下諏訪町でインバウンドの受け入れ態勢の整備というお役目をつくっていただき、観光振興局の臨時職員として働いていました。ところがパンデミックになってしまって、外国人観光客が激減。そんなときに林さんから「松澤宥の生誕100年を下諏訪町で祝おう」という趣旨の企画をやらないかと持ちかけられました。松澤さんについては、林さんから「やばい、やばい」とは聞いていたので、相談を持ちかけられたときには、「ぜひに!」とお返事しました。

 

知的に探求もできるし、我々に元気を与えてくれるアーティストと捉えることもできる

 
 

――美術史には欠かせない松澤さんですが、地元では知る人ぞ知る存在ですよね。

 
 もともとこの企画をやろうかと思ったのは、下諏訪はもちろん諏訪の皆さんに松澤さんの存在を知ってほしいと思ったからなんですよ。松澤さんのお宅は今も下諏訪にあり、ご家族や関係者の方々が「一般財団法人 松澤宥プサイの部屋」を運営されています。このご自宅に有名な「プサイの部屋」というアトリエがあったのです。長野県立美術館の学芸員・木内真由美さんと古家満葉さんが毎月のようにいらして、作品や資料をかき分けて、探して、分類してという作業を財団の方と一緒に何年も続けられていました。それでも掘り尽くせないほど作品や資料があるんですよね。また松澤さんは孤高の人に見られがちですが、例えば寺山修司さんや赤瀬川原平さん、イギリスの現代アートのスター、ギルバート&ジョージともつながっているし、文学、演劇、音楽、アートなどメジャー、マイナー問わずアーティストとのネットワークを非常に大事にした方でもあります。そのネットワークの中心が諏訪。メール・アート、当時なので手紙ですけど、発送や受取りのために毎日のように下諏訪の郵便局に通っていたらしいです。そうしたやりとりが全部残されている。一次資料が膨大なんです。それらの作品や資料は耐震の問題などもあり、現在は別の場所に移されて保管されています。

 
 

諏訪実業高校定時制下諏訪分校教員の同僚と。右は青木靖恭氏、左は書家として有名な太田谷山氏

 
 

――これからまだまだ掘り起こしがいがあるということですね。

 
 松澤さんの実績の検証はすごく大事、これから今まで以上にいろいろな方が調査・研究をしてくださるのではと楽しみです。同時に何度も言いますが、松澤さんの人生、生き方が本当に面白いんです。僕や今井さん(インタビュア)なんかは東京の文化はいいなと、そういう気持ちがあって上京したわけじゃないですか。でも松澤さんはいきなり下諏訪に帰ってきてしまう。早稲田大学で建築を学び、戦後2年くらいは横浜の建築事務所に勤めていたけれど、諏訪実業の先生になって、その後30年以上にわたり教師をやる。その間にウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授(第2次世界大戦終了直後の1945年、「世界平和を達成するためには人と人との交流が最も有効である」の信念のもとにウィリアム・フルブライト上院議員が米国議会に提出した法案に基づいて発足した、米国と諸外国との相互理解を目的とする人物交流事業)として招聘され、そのままコロンビア大学で学ぶんですけど、2年ほどでやはり諏訪に帰ってくる。フルブライトに選ばれるなんて超エリートですよ。それでも地元に戻ってきて、文化活動をして、世界とつながっているところが面白い、すごい。松澤さんは表面的には地元で地域おこし的なことはしていませんが、根っこのところではものすごい諏訪を意識し、新しい文化を真面目につくって世界に発信していったことがすごいなと。

 

――白いスーツでパフォーマンスをしている姿を見ると、ロックシンガーの内田裕也を連想します。

 
那波 見た感じ、似てなくもないですね(笑)。
 
 その視点は的外れでもなくて、いろいろな解釈ができる人なんですよね。このパフォーマンスは確かにロックっぽい。僕としては、どちらかというと、ジョン・レノンやデビッド・ボウイですが(笑)。80歳を超えて「地球が滅びるぞ」みたいな文章を読み、その紙を投げて去っていく。すごいロック、パンクですよね。ヒップホップ的とも読める。20世紀のアートの中ではパンクとかダダ(欧米の複数の都市で展開された、反美学的姿勢、既成の価値観の否定などを特色とする20世紀前半の芸術運動)など、どの分野でも必ず「すべてを否定しよう」といったムーブメントが起こる。こういうことに参加したアーティストは最後は自分をも否定してアートをやめちゃったり、中には自殺する人もいるんですけど、松澤さんは全部を否定した上で、世界や宇宙とつながるという芸当ができた。既存の価値観を徹底的に否定しながら、表現がすごい変化していて、バラエティに富んでいるし、鮮やかだし、非常に多彩です。でも根っこにあるのは一つで、「消滅」。ものすごく虚無な捉え方もできるんですけど、一貫性とどんどん変化する表現のバランスがものすごく面白い。マイルス・デイヴィスやデヴィッド・ボウイみたいですよ。ピカソと言ってもいいけど、優れたミュージシャンに似ているところがある。意外とポップになりたかったのかな、そうでないかもしれないけど、両義的な感じがするんです。僕個人の感想ですけど、とてもとんがったぶっ飛んだ表現もあれば、ベタなところもあるんですよ。松澤さんも意識してやっているのかもしれない。

 

――林さんが特に惹かれるのはどんなところですか?

 
 いろいろあるんですが、例えばテレビやラジオで表現したりとか、メディアアーティストとしても面白いんですよ。「オブジェを消せ」と1964年に有名な啓示を受けます。そこからいろいろな方法で「言葉」で発信していく。「観念芸術」の誕生です。簡単に言えば、自分の頭や心の中でつくったものがアートなんだということだと思うんです。それがオブジェを消したことで、メディアアートになっていく。最初はチラシ、次は美術雑誌で下諏訪の霧ヶ峰にある七島八島で展覧会をやるので、目の前に作品を置いて念で作品を送ってくれという広告を出すんですよね。評論家の瀧口修造をはじめ、参加した人が4人はいたと。コンセプチュアルアーティストってそうなのかもしれないけれど、とても戦略的だったりするところもあって面白いですよ。

 
 

松澤宥(撮影:中嶋興 画像提供:慶應義塾大学アート・センター)

 
 

――そういう松澤さんの表現の根本にあるものはなんだと思いますか?

 
 自分なりに掘り下げていてタッチしたのは、戦争です。1922年生まれの有名人と言えば、漫画家の水木しげるさんがいます。水木さんは一兵卒として戦って、腕を失って、死ぬような思いして帰ってこられた。でも松澤さんは早稲田大学の理系だったので学徒出陣を見送られて銃後を守った。でも旧制諏訪中学の同級生は半分ぐらい亡くなっている。若いときの友達を理不尽な出来事で大量に失った強烈な空虚、それが源になっている感じがします。その虚無感を乗り越えるためにどうしたらいいかを一生懸命考えたのかなと僕は思っています。

 

那波 一般的に見て松澤さんの表現は決してわかりやすくはないし、観念芸術というとどうしても難解なイメージがありますが、優しくて温かい人柄がにじみ出たエピソードがたくさん残っているんです。メール・アートも、国境や言語などのボーダーを超え、郵便物を通して個としての人間同士が向き合い、互いを想うコミュニケーションの手段だったのだと思います。先日、松澤さんのところに届いたたくさんのメール・アートを拝見しました。ちょうどコロナの影響でコミュニケーションが制限され、家にこもってオンラインで仕事をする時間が多かった時期だったんですが、たくさんの人とたらふく話したような、満ち足りた気持ちになりました。こういうことを松澤さんは1960年代の諏訪で、インターネットのない時代にすでに感じていたのか……と。
 私自身、昨年まで昼間は町の観光振興局でローカルな観光に携わり、帰宅後は日本の現代美術や建築の情報を世界に向けて発信するという仕事のスタイルだったので、昼と夜で地球にズームイン、ズームアウトを頻繁に繰り返していたような不思議な感覚を覚えました。世界の広さを意識しながら諏訪の地でローカルな仕事に取り組む自分を、客観的に見ることができたんです。松澤さんも夜は定時制の高校で生徒に数学を教え、昼間は創作活動や地元はじめ世界の仲間とのコミュニケーション活動に打ち込んだ。なんだか、僭越ながら親近感を覚えてしまって、自分の中ですごくタッチングな出来事でした。

 

 難しいと思ってみると難しいんですけど、ちょっと近づいてみるとすごいコミュニケーションへの欲求がある。何か伝えたいという気持ちを持ち続けた人じゃないかと思っていて、そういう視点で見ると意外と言ってること、やっていることはシンプルですよ。

 
 

フルカ峠(スイス)でのパフォーマンス 撮影:大住建

 
 

――頭でっかちに解釈しようと思うと、きっと挫折するんでしょうね。

 
 少なくとも僕は絶対に勝てないです(笑)。もちろん知的に探求していく人がいてもいいし、知の巨人でもある。一方で僕みたいにポップスターというか、現代を生きる我々に元気を与えてくれるアーティストとして捉えることもできると思います。僕ができることは後者なんです。もうちょっと松澤さんを楽しんでみても良いのでは、ということです。遊びがいっぱいあるんですよ。例えばめちゃくちゃ過激で真面目な文章の中にいきなり「ニルニル」って出てくるんですよ。なんかちょっと不気味可愛い(笑)。ニルヴァーナ(煩悩が消え、悟りの境地に達した状態を指す言葉)の概念も打ち出しているので、そこから来ているんですが。あと「ハ」という文字とか。密教の曼荼羅の意匠を使った言葉による作品の中で9×9とか9の倍数に文字数をそろえるのですけれど、字足らずで最後に「ハ」で埋めたりとかしている。「物質のない宇宙をハ」「発見してしまったハ」とか。なんか面白い。これは松澤さんも少し笑ってほしいところかもと。

 

那波 キャッチーなところでは草間彌生さんも松澤さんを訪ねているんですよね。アニキ的存在だったんじゃないかと。

 

 2回目の草間さんの個展に松澤さんも賛助出展していて、カタログにも文書を寄せている。草間さんと滝口修造さんを会わせたのも松澤さんで、滝口さんが水彩画展への出品を勧めて草間さんとニューヨークがつながるんですよ。

 

――世界的なビッグアーティストである草間さんと松澤さんが下諏訪や松本でアート談義をしていたかと思うと夢が広がりますよね。

 
 50年代の中南信、すごい地域ですよね、そのへんもっと知りたいですよね。
 
那波 でもずっとコンセプチュアル・アート(概念芸術)をやってたわけじゃなくて、初期のデザインや記号詩、絵画などはものすごくカラフルで美しい。そういう誰が見ても美しいと思う時代を入口にするのがいいのかなと思うんです。まずは共感、共鳴してもらわないことには始まらないわけですし。
 
 初期の絵画ってデッサン的なものも多いんですけど、世の中に出ていないのもいっぱいあるんです。本当にわかりやすく魅力的な絵画もあるし、ポスターとかもすごい格好いい。絵画でもありとあらゆるチャレンジをしているんですよね。コミュニケーションの在り方ってどうしたらいいのか、当時の最先端の文献とかを見ながらいろんな工夫をしている。コラージュもセンスいいし、アンディ・ウォーホルみたいになこともやっている。色のセンスがすごいですね。当時ピンクを自分の色にする時点でやっぱりすごい。

 
 

タイトル不詳、1950-60年代か

 

タイトル不詳、1950-60年代か

 

タイトル不詳、1950-60年代か

 

――『生誕100年祭』についてご紹介いただけますか?

 
 長野県立美術館が回顧展をしてくださるので、我々は地元のお祭りということで『生誕100年祭』と命名しました。松澤さんを顕彰するとともに、自分たちのクリエイティビティも問い直そうと。下諏訪町立諏訪湖博物館がメイン会場になります。そして「まちなか展覧会」ということで、カフェや旅館、店舗の方にご協力いただき、松澤さんの作品や資料を置かせていただきました。ただ置いただけではなく、会場によって、松澤さんの作品やアイコンによってリスペクトを示しながら、それを自分たちのお店や、表現と重ね合わせているところもあります。松澤さんと共作しながら生誕100年をお祝いしている、と言ったら言い過ぎでしょうか。そんな「面白い町」下諏訪を歩いて楽しんでいただきながら、松澤さんの作品を見ていただければという仕掛けです。
 
 

消滅の幟 1971東京都美術館
第10回現代美術展「人間と自然」

 
 
 諏訪湖博物館では「アートの歴史を変えた諏訪人」というテーマで、エントランスには有名な「人類よ 消滅しよう 行こう行こう」と書かれた『消滅の幟』を垂らしました。レプリカですけど、概念芸術だからいいんです。長さ約20メートル、実際に垂らしてみて、改めてその大きさと生々しい存在感に圧倒されました。それとともに、「消滅の幟」へのオマージュとも返答とも言えるできたばかりのもう一本のピンクの幟があります。オーストラリアのアーティスト、ケイト・ジャストさんと嶋田美子さん、それから世界中の女性の合作とも言える「私はここにいる」です。さらに松澤さんが発想のもとにしたかもしれない、母校である諏訪清陵高校の幟が2本飾られています。過去、現在、未来にかかわる合計4本の幟が掛かっています。エントランスにはまた、昨年11月に三角八丁のイベントで、松澤さんをテーマにしたワークショップで200名以上の子どもたちがつくった作品を展示しました。伊東豊雄さん設計の博物館のかっこいいエントランスに諏訪湖に向かって松澤さんの代表作を中心に、多くの人たちがかかわった作品が展示されています。
 展示室には、松澤さんの年表、仲間の詩人、アーティストなどいろいろな方との作品や活動など諏訪にちなんだものをたくさん展示しています。例えば、面白いところで「美学校諏訪分校」にかかわる資料の展示も。これは、70年代に現在も東京神田にある「美学校」の分校を松澤さんを中心に諏訪につくったときのものです。中村宏さんや小杉武久さんなど前衛アート界のスターが先生として諏訪でも教えていた。驚きますよね。
 もう一つの目玉は、観念芸術を始める前に描かれた絵画の展示です。50年代〜60年代前半の大判の作品を12点。青年期や実験的な習作、未公開のもの、長年にわたり封印されていたものを含め、20点以上の作品を展示します。絵画の点数では、県立美術館より多いです。松澤さんの絵画については、これから研究されるべき分野だとも言われます。松澤さんを「画家」に見せたいわけではないのですが、当時美術評論家に「色彩家」と言われた松澤さんの絵はとても面白く、美しい。スタイルも多様です。これだけの絵を描いた人がその後「観念美術」に進んだのはなぜなのか、ということを考えるのも面白いかと。また、晩年の松澤さんを追った写真家、長沼宏昌さんによる伝説のアトリエ「プサイの部屋」の写真や映像も展示します。

 
 

三角八丁でのワークショップより

 

三角八丁でのワークショップより

 
 
 さらに、2回のトークイベント「松澤宥ってどんな人?」「諏訪と松澤宥」と「22の音素による音会幻想」というサウンドインスタレーション&パフォーマンスイベントも開催予定です。トークイベントには、長野県立美術館の松澤さんの回顧展に尽力されてきた学芸員のお二人、木内さんと古家さんにスワニミズム美術部のメンバーとともに参加いただきます。「22の音素による音会幻想」では、スワニミズムメンバーで諏訪清陵高校の美術の先生である百瀬登さんが音響デザインをし、宮坂了作さん、北澤一伯さんという長野県を代表するアーティストと諏訪出身の26歳、新進のパーカッショニスト・宮坂遼太郎さんの3名によりそれぞれパフォーマンスが行われます。
 100年祭全体のキュレトリアルアドバイザーとして美術家の嶋田美子さんと松澤さんの財団理事でもある長沼宏昌さん、諏訪湖博物館全体の展示ディレクションはスワニミズムの先輩の井出賢一さんと石埜穂高さん、絵画の選定や音楽イベントのディレクションは百瀬さんが担当してくれました。

 
――街中はどんな感じですか?

 

 諏訪湖博物館以外に合計10カ所で展示が行われています。お店の個性と松澤さんの作品が重なって、本当に松澤さんとの「共作」と言っていいのではという場所がたくさんあります。
 ぎん月のロビーや御宿まるやさんの素敵なギャラリーと茶房には、小品の絵画10点ほどを飾らせていただきました。未公開と考えられるものを含みます。マスヤゲストハウスさんは若い方が集まる場所なので、「松澤宥100年祭 状況探知センター」としてリビング&バーに代表作数点と、書棚に松澤関連書籍を置いて、そこからほかの会場にもつなげたいと考えています。UMI COFFEE & LAUNDRYさんではランドリーの壁を使わせていただいて松澤さんにまつわるイベントや展覧会のポスターを、Eric’s Kitchenさんでは記号詩と同時期に書かれた「自画像」、ninjinsan ではかっこいい写真とポスター、Café Tacさんでは松澤さんの伝説の1971年のヨーロッパの展示旅行を中心に旅のスナップを展示しています。すみれ洋裁店さんでは松澤宥100歳のお誕生日を祝して「何もしないパーティー」を行い、諏訪のゆめひろさんではカメラマン長沼宏昌さんによるプサイの部屋や松澤関連作品を上映しています。
 もう一つ、青木英侃邸は、我々の仲間である陶芸家の青木さんのお父さんが詩人で、松澤さんと仲が良かったんです、二人でしょっちゅう遊んだり、青木さんの家で一緒に物をつくったり絵を描いたそうなんです。松澤さんが制作活動をした雰囲気を楽しめるような場所になります。こちらは青木さんご本人に事前に連絡を取っていただいて予約の上、訪問していただきます。

 
 

 

 
 

――松澤さんの足跡を諏訪で残せることは重要であり、楽しみですね。

 
 そうなんですよ。まずは先ほど申し上げたように、地域の皆さんに存在を知っていただくこと。そして松澤さんの遺した資料などを保管したり展示したりする場所があれば、世界中から諏訪にファンが来ると思うんですよ。前衛アート好きにはたまらない世界ですから。そのきっかけを今回つくれればいいと思っているんです。

 

那波 広報的には、長野県立美術館の回顧展と下諏訪の100年祭の両展がアート専門媒体に取り上げられ、ネットやSNS界隈を賑わすことができたらうれしいなと思っていたのですが、早くもその夢が叶いつつあります。下諏訪町の大好きなお店や施設が、自分が普段愛読している美術媒体に取り上げられるというのは、なんとも感慨深いものですねぇ。下諏訪といえば明治・大正時代のアララギ派歌人である島木赤彦、島木に師事した歌人・小説家の今井邦子がすぐに浮かぶと思うのですが、生誕100年を機に松澤さんのことも地域の方に愛されるようになってほしいです。

 
 

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