[聞く/entre+voir #026]ナカムラ ジン(美術家)
何か目に見えないものに導かれ、自分でも持続できる工夫を続けてきた作家人生
そしてこれからも、それを実感しながら描き続けていく
山ノ内町の志賀高原ロマン美術館で、美術家ナカムラジンさんの個展が始まった。ナカムラさんといえば、ガレリア表参道の「N-ART」展をはじめ、県内のさまざまな展覧会でお見かけするカラフルな色使いをした仏画が印象的。あの作風がなぜ生まれたのか、興味があった。ナカムラさんが運営している、軽井沢にある信濃追分文化磁場「油や」のギャラリー「ART PROJECT 沙庭」でお話を聞いた。
アーティストになろうとは思っていなかった
――ナカムラさんの仏画は、一度見たら忘れられないインパクトがあります。その作風がどういう経緯で生まれたのか、今日は伺おうと思ったんです。
ナカムラ 芸歴はかれこれ30年、そう言い始めてもう数年たってるからなぁ(笑)。長いですよ。勝手に話すから適当にカットしてください。
まず僕は学校の先生を3年くらいやっていたんです。そして教師を辞めるときに展覧会デビューしました。かつての長野駅ビルMIDORIの小布施堂さんの販売スペースにあった床の間空間を使って、当時小布施堂のCI構築をされていたアートディレクターだった方が、月単位でアーティストをプロデュースするという企画をやられていたんです。CI戦略とか企業メセナとか地方都市ではまだまだ珍しかった時代。僕は20代後半でしたが、とてもきちんとしたデビューをさせていただいと思っています。
とはいえ、この国でアートで食べていくのは簡単ではないし、アーティストになろうという高い志があったわけでもない。ただ自分のつくった物に対価がついて生活につながればいいなぁくらいの漠然とした考えでした。だから今の若い子たちが普通に「アーティストになりたい」と言うのを聞くと心から感心します。僕が自分は芸事で生きているんだと気づき、覚悟を持ったのはここ10年くらいの話ですから(笑)。
広告のためにイラストレーションの役割を理解していなかった
――でも学校の先生を辞めるとは、大胆ですよね。何か目指すものがあったのですか?
ナカムラ そうだよね、もう結婚もしていましたから。若気の至りですね。まあとにかく自分の手から生み出せる可能性のあるものはなんでもやったと思います。金属の仕事や陶器の仕事、絵も描きました。ただ、一言で「絵」と言ってもたとえば絵画(平面作品)というファインアートもあれば、商業広告と絡んでくるイラストレーションもある。もちろんファインアートでも額に入って対価がついて、流通すればお金になるんだけど、あまりピンとこなくて。もともと芸術家指向でもなく絵が描ければ何でもいいと思ってたので、80年代一世を風靡していたイラストレーションという仕事にに少しづつ興味を持っていきました。今は現代アートとしての平面作品の登竜門的なコンペがいくつかあるんですけど、当時は自分が描いたものを出してみようと思えるファインアート系のコンペや公募展が見当らなかったんですよ。なんか自分の作品がどこにもカテゴライズしづらくて。そんな中イラストレーションにはJACA日本イラストレーション展、日本グラフィック展という二つの大きなムーブメントとしての登竜門があった。応募数もものすごい数で4000点を超えていたようです。それよりも応募作品がどれも時代のエネルギーに満ちあふれているように感じてとても魅力的な公募展でした。
そのころ僕は動物などをモチーフにしたプリミティブなイメージの作品をたくさん描いていて、それは最初に応募したJACAでなんとか入選はするんですけど、掲載された記念図録の作品写真もだいぶ後ろの方で小さくいわけですよ。もう少し上位に食い込めないものかと思い、ちょっとあざといんですが当時の流行りみたいなものをリサーチして制作し、日本グラフィック展に応募したら、なんと受賞してしまうんですね。レセプションにも喜々として参加し、審査員としていらしてたアーティストのトップランナーだった日比野克彦さんや日本のグラフィックデザイン界を牽引する粟津潔、浅葉克己、永井一正さんといった名だたるアートディレクターの方々たちともちゃっかりお話しなどさせてもらったりして……。
――すごいです。ちょうど僕も大学に入るか入らない時期に、活躍されていた方々です。そういう世界に憧れて日比野さんのサインも持っていますし、かなりメディア露出していた人気のデザイナーさんに注目していました。
ナカムラ 若いからさ、「これで長野でも一躍有名人!」くらいの気持ちで帰って来るんですけど、とくに新聞の取材が入るわけでもなく、仕事が来るわけでもなく。つまり受賞したことなんて誰も知らないんですよね。仕方がないので、デビュー展でお世話になった小布施堂のアートディレクターの方に自分の作品図録を持って会いに行くんですね。もちろん仕事として使ってもらえないかな……という気持ちで。彼はしばし考えて「う〜ん……ナカムラは馬とか牛とか描いているから使うんだったら某ハム会社かな……」と呟くわけです。それで僕は悟ります、どう考えても自分が描いた牛の絵でハムが売れるはずはないと。イラストレーションは特定の商品の販売促進ツール制作のための一部という基本的なことを理解してなかったというか…まああまりにも稚拙なんですけど、今思えばある意味逆に芸術志向だったのかもしれません。しかし懲りずに、使ってもらえないんだったら、自分が使う側になればいいと考え、グラフィックデザイナーの仕事を始めるんですが、客観的にそういう視点で自分の絵を見ると、ますます使えないということがよくわかりました(笑)。
――挫折であり、気づきもあった瞬間ですね。
ナカムラ それでも相変わらず動物の絵は描いてましたね。ただグラフィックデザインをやっていると印刷の知識が増えて、あれも版を重ねるものですから、そのうち版画にも興味を持ったんですよ。たとえば印刷物のCMYKの色玉、印刷屋さんが色調が合っているかどうか確認するためのものでいずれ裁断されて捨てられてしまうんですけど、そんなものが面白いと思ったりして、グラフィックデザインの仕事から着想を得たような版画もだいぶつくりました。同時にまだ小さかった自分の子どもたちに毎晩読み聞かせていた“絵本”というメディアにも興味を持っていきました。そのころの絵本業界も不思議でパワフルな作家がたくさん出てきて、本来描きたかったプリミティブな雰囲気の自分の絵も“言葉”というものとコラボレーションできたら何かワクワクする新しいステージと出会えそうな気がして。とても時間のかかる仕事でしたが出版社の編集の方々にも恵まれて何冊か出版することができました。そういう時代が10〜15年くらい続いたかな。あれこれいろんな表現をやってきましたけど、ここで大事なのは、とにかく辞めなかったこと(笑)。普通は辞めるんですよ。ただ僕の場合はなんとなく持続できるような工夫を無意識にしていたと思います。それとなんだかんだ目に見えない何かがつなげてくれた。そんな感じで40代に突入です。
転機は若いお坊さんに背中を押してもらったこと
ナカムラ ある年に、兵庫県豊岡市の素敵な山奥の集落にある、廃校の教室が会場となったアートイベントに呼ばれるんです。その時の展示内容は、そのころ興味があった中南米あたりから輸入されるバナナのダンボール箱を、一辺が5〜6センチほどの小さな立方体にリメイクして教室の床一面に並べていくというインスタレーションでした。海を渡ってくるバナナの箱のイラストやロゴなんかのデザインがちょっとヘンで、それがまた版ズレしてたりしていて日本の印刷物みたいに完璧すぎない感じが妙に面白かった。もともとこの箱はそのころ制作していた陶磁器作品「なんちゃって古伊万里・ビミョーに古九谷」シリーズのぐい呑み用のパッケージとして制作したものでした。古い文様を引用してあそぶ……たとえば青海波の中からロボットが飛び出してくる……みたいな作風でしたので、いかにも桐の箱などが似合わなくて開発したものです。某有名デパートのお正月の酒器展もこれで押し通しました(笑)。
その時の展示をバイク乗りで建築家という、日蓮宗のある若いお坊さんが見にきてくました。展示されたバナナの箱のことからバナナのシールの素敵さにまで会話がはずみ、さらに相手はお坊さんですから必然的に仏像の話に発展します。実は僕、子どものころ奈良・京都で初めて本物を見て心が動いて以来の仏像好きなんです。さんざん仏像談義で盛り上がったあと彼が帰り際に「ナカムラさん、そんなに仏像がお好きなら描けばいいじゃないですか」と一言。その一瞬に「描いていいんだ……」というスイッチが入りました。それまでは好きではあったけどやはり宗教的なものだし、どこかで美術のネタにすることにはためらいがあったんだと思います。しかし考えてみれば、「宗教画」は「生と死」「愛とエロス」に並び古来美術の三大モチーフの一つ、描いてよかったんですよ。翌年の豊岡では「弥勒菩薩」を描いて展示しました。例のお坊さんがまた来てくれて「本当に描いたんですねって」(笑)。
――いよいよ、現代の作風に近づいてきました!
ナカムラ そうですね。それまで興味と掌の趣くままに時間をかけながらもさまざまな表現をしてきたんですが、いずれ絵を描くという仕事……筆一本で描ききるということに向き合わなければならないだろうなと薄々気づき始めていたけれど何を描いていいかイマイチしっくりくる題材を見つけられずにいるときでした。まさにそんな時に貴重なテーマをもらったような気がしています。とてもラッキーなことでした。なんせ仏教界はほかの宗教に比べても特に豊富なキャラクターを有しています。ほぼ一生モチーフに困ることはありません(笑)。
それから喜んで仏画を描き始めるのですが、そのころ小布施町の禅寺・玄照寺さんで開催している「境内アート」という企画にかかわっていたこともあって、そのご縁でお寺に四曲一双の屏風を納めることになりました。屏風はとても大きな画面でしたし、一対の屈曲した面は単純な平面とは異なり、そこにある種の物語性が必要になると感じました。物語なのでそこには仏像という主人公や脇役の羅漢さんやさまざまな霊獣たち、その背景には山水図や花鳥の世界……。大好きな仏だけ描くということではなく“多様”な絵を描かざるを得ないことになる……ま、すべて自分でまいた種なんですが。いまさらなんだけど正直“花”ってどうやって描くんだろう……と思いました。でも時間をかけて描いてるうちに“花”もいいもんだなぁと自然に思えるようになって。結局何を描いてもいいんだ……ということと何でも描けなきゃ……ということに気づく。後づけですが仏教思想には「草木国土悉皆成仏」という言葉もあるし。まあそういうわけでこれ以後タガが外れたように何でも描くようになります。描きたいものがどんどん増えていって、もう収拾がつきません(笑)。
美術館での初個展は、紆余曲折の創作人生を俯瞰したものに
――志賀高原ロマン美術館での展示は、どんな内容になるのでしょうか?
ナカムラ 日本は西風の吹く大陸のいちばん端っこで、中国や朝鮮経由、あるいは東南アジア経由、ロシア北方経由でいろんな文化が入ってきてここで終わりです。この先は広大な太平洋なのでパラボラ型をしたこの小さな島国が最後に全てを受け入れて、見事に小さく美しく結晶化させていくのだと思ってます。造作物やモノの考え方、神様までも小さくなって。でもただ小さいだけではなくそれぞれが多種多様でまたその数の尋常でなく多い。僕の作品もそんなこの国の風土の中で自然に産まれてきたものだとこのごろ実感しています。現在志賀高原ロマン美術館で初めて美術館での個展を開催させていただいてますが、今回こうしてここ10〜15年ほどの自分の作品を俯瞰してみる機会を得ると、これまでは無意識にそうしたことに導かれ今ここに至り、そして今後はさらにその実感を強く意識しながら制作していくのだろうなと思っています。まずはナカムラがこれまで話した、紆余曲折の長〜い話の現在の顛末をご覧いただければと。たぶん納得していただけると思います。
――ちなみに箱はどうされるんですか?
ナカムラ 箱かあ。全然考えていませんでした。でもそれだって自分で生み出したものだし、何より作家人生の転機になったブツですからねぇ…並べてもいいんだよなあ……いや並べるべきか。ただのダンボールの箱だけど、ちゃんと箱の型屋さんに型を抜いてもらって、構造もしっかりしたものなんですよ。しかも型抜きするとき、バナナの柄がいい感じに残るようにいちいち場所を指定するんで、型屋さんにはすごく嫌がられるんですよ(苦笑)。そういう苦労をしているものだから、それだってアートだよね。
※ナカムラジンさんの展示の詳細は山ノ内町立志賀高原ロマン美術館のホームページでご確認ください。
(注)当初展示予定になかったバナナ箱はこの取材をきっかけにインスタレーションの素材に一部として展示使用されています)