【今だから芸術を語ろう】小林英樹(映画「いつくしみふかき」松山義孝役)
撮影:北林南
人間は変わろうとしてもすぐには変われないもの
そのことに悩み苦しみながらも、あきらめない不器用な父と息子の姿に
自分も頑張ろうと思っていただけたらうれしい
南信州でのオールロケ、渡辺いっけい、金田明夫、眞島秀和らに混じって飯田市出身の俳優が何人も出演している、大山晃一郎監督の映画「いつくしみふかき」。2019年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭で「ゆうばりファンタランド大賞」ほか11もの受賞をするなど、少しずつ、しかし確実に注目を高めている。この映画、飯田にゆかりのある俳優・遠山雄の知人がモデルになっている。父親の葬儀で、周囲に迷惑をかけた父親をかばいながらも謝罪をした彼の姿が衝撃的だったという。父親・広志役を渡辺が、息子・進一役を遠山が演じている。ここに飯田市出身の俳優・小林英樹が、進一に意地悪くねっとりと絡む叔父役を好演している。
――2月からずっと映画館に通っていらっしゃったそうですね。
小林 はい、舞台あいさつをしておりました。本来だったら3月、6月、秋口と舞台の仕事があったんですけど、すべて来年に延期になって。また演劇のワークショップや講演会、企業研修の講師もやらせていただいているんですけど、それも早い段階に秋口まですべてなくなりました。この映画のPRなどで東京に行くこともできたんですけど、そうすると飯田との行き来が難しくなってしまいますよね。飯田でも演劇のワークショップもやっているので、飯田に留まり、ずっと実家に滞在しています。飯田のトキワ劇場とセンゲキシネマズでバレンタインデーから先行上映をしていただき、4月は1カ月ほど閉館もしましたが、毎日映画館に通っていました。
――この映画には、どんな経緯で出演されることになったんでしょう。
小林 企画・主演の遠山雄が、飯田にゆかりがあって、大鹿村で育ったり、遠山郷に親戚がいたりするんです。彼が南信州で映画を撮ろうと大山晃一郎監督と一緒に動き始めたんですけど、そのときに飯田市出身の俳優を探していました。僕はTwitterに飯田市出身だと書いていますし、飯田のことが大好きでいろいろとつぶやいていたんです。それが検索で引っかかって、遠山から「企画書を見てほしい」と連絡をもらい、東京で面会しました。それが4年前。彼の熱い思いに打たれて、「出させていただきます」ということになりました。お互いの演技を見たのはその後です(笑)。その時点では、いっけいさんの主演はほぼ確定、ほかの有名俳優さんは交渉中の状況でした。
――遠山さんが列席したお葬式で実際に見た出来事が映画の題材になっているんですよね?
小林 そうです。モデルになった方は飯田にお住まいで、僕と同い年なんですが、映画のクランクインからスタッフとしても相当深くかかわってくださいました。映画館にも何度も足を運んで見てくださっています。映画では殺人事件などバイオレンスの要素も描かれるので、台本を読んだときは「自分の実体験からものすごく飛躍している」とすごくうれしそうに感想をおっしゃっていたそうです。
――小林さんは改めて台本を手にして、どういう感想をお持ちになりましたか?
小林 まず、有名な俳優さんたちが飯田の方言をしゃべってくださるのがうれしかったですね。僕は方言指導もさせていただいたので、自分の撮影がない日も現場に通っていました。いっけいさんや金田さんという第一線で活躍されていらっしゃる方々は、飯田弁のイントネーションをお伝えするだけで、すぐに自分のものにしてしまう。本番直前に「コバちゃん、ここ教えて」と呼ばれて、お伝えすると、その場でできてしまうんです。すごい集中力を目の当たりにして、こういう人じゃないと売れないんだなと驚きましたね。
それからロケ地が南信州のいろいろな町でよかったなあと思いました。バイオレンスのシーンを大自然をバックに撮影したら美しくなるだろうなと。自分の役についてはちょっと厳しいなあと思いましたけど(苦笑)。
――その役づくりでご苦労されたことなど教えてください。
小林 主人公・進一の叔父・松山義孝役なのですが、義孝の姉、つまり進一の母を苦しめた旦那の広志のことがあって、進一のことは心から憎いわけではないのに、事あるごとにイビって町から追い出すしてしまう。親しみある笑顔で「お前さんのことが嫌いなんだ」「出て行け」と言ったりする感覚は僕の人生の中にはなかったので、進一と向かい合うシーンは苦労しました。こんな僕までメインキャスト扱いをしていたいて、本当にありがたいですね。
――町の方々も相当に協力してくださったそうですね。
小林 ロケ弁当を町のお母さんたち、飯田では「飯田ガールズ」、遠山郷では「遠山かあちゃんず」がつくってくださって。東京でロケをするときの僕らのロケ弁は1食880円なんですが、飯田では18円でした。もうお母さんたちが家でつくったお米やお野菜を持ち寄ってくださって。飯田名物のおたぐりが入っていたり、遠山の鹿カレーだったり、美味しいから皆さん毎日残さずに食べていました。ロケ隊は約70名いたので、それだけで経費削減になるんです。予算がない自主制作映画でしたから助かりました。
――やはり飯田出身のシンガー、タテタカコさんの歌もすごく印象的ですね。
小林 タテさんの優しい声と音楽が、下伊那の風景とぴったりだと思います。最後、進一が歩く道、下伊那の山々、川、町並み、そしてご協力いただいた、たくさんの方々のお名前が載ったエンドロール。そこに流れるタテさんの「いつくしみふかき」という曲が、進一や広志、そして観ている方々の心を救ってくれる気がします。また、進一がおにぎりを落としてしまうシーンで流れる「もぐら」もジーンと来ます。
――公式サイトを見たら県内の公開館が急増していました。これから見てくださるお客さんにどんな映画だと紹介しましょうか。
小林 不器用な父と息子の物語です。家族のつながりは大事なのに、日々の中で、僕らはついそのことを忘れて生活してしまいがちですよね。この映画は親の存在をもう一回再認識してもらえると思うんです。ただ人間は変わろうとしてもすぐには変われない。進一と広志もそのことに悩み苦しみ、なんとか変わろうとしている姿、彼らの変わることをあきらめない様子を見ていただいて、自分たちも頑張ろうと思っていただけたらうれしいですね。
僕が教員をやめたのは、演劇教育を学びたかったから
遠くない未来に教育現場に復帰して
未来の方々に、演劇を通して学んだことを渡して恩返ししたい
――少し小林さんの経歴について聞かせてください。役者を目指したのはいつごろからですか?
小林 18歳で劇団ひまわり青年部のオーディションを受けて、入団したんですよ。でも役者をやりたいというよりは、マンネリ化した生活に嫌気がさして、何か表現活動をしたくなったんですね。そんなときに目にしたのが劇団のオーディション情報で、演劇も面白そうだなと思ったんです。
――でも実際は中学の教員になられたわけですよね?
小林 下伊那、上田、松本の中学で教鞭をとっていました。教員が第一希望だったので。演劇を学びながら大学を出て、教員をやりながら舞台にも立つという二足のわらじで10数年間を過ごしました。でも気づいたら先生ではなくなっていました(笑)。2011年、34歳のときにやめたんです。それは役者がやりたかったわけではなく、演劇の手法を用いた授業をやったりしていたものですから、一番は演劇教育の勉強をしたかったんです。と同時に僕は演劇教育について長野県内で広く知ってもらいたかったんですよ。でも実際は自分が受け持ったクラスでしかできませんし、同僚の先生が「小林、あんなことをやっているんだ」と認識してくれる程度でしたから。役者としては年に舞台を5本くらい、たまにテレビドラマの現場もあるんですけど、あとはワークショップ、企業の社員研修なんかもやっています。
――これから飯田で活動する劇団のサポートもされているんですよね。
小林 はい。菊地由里さんという方がお一人で旗揚げした「劇団雅」と言って、12月に市内で旗揚げ公演を行います。僕は脚本と演出としてお手伝いしているんです。キャストはオーディションで集めました。
その劇団さんが主催してくださっているワークショップの講師もやっています。それは俳優養成を目指しているわけではなく、一般の方々も参加してくださっています。僕自身が演劇を通して、たくさんの人のことを知ることができたんです。教員をやっていたのでもちろんいろんな子供や親御さんに出会ってはきたのですが、うまく接することができなかったこともありました。でも演劇によって心の解放や相手の立場になることを学び、そのことで実は自分が楽になれたんですね。だからこそ未来の方々に演劇を通じて恩返しをしたいという思いがあるんです。
――では生涯、役者さんとして頑張っていかれるんですね。この映画を見た関係者によって、お仕事が増えるかも知れません!
小林 実は演劇教育を学んだら、もう一度、教員に戻りたいと思ってやめたんですよ。演劇と教育が自分の中でつながったので、いずれ次の目標に進むタイミングが来るだろうと思っています。いえ、そう遠くないうちに教育の現場に戻るつもりです。先生、好きなんですよ……でも役者の仕事、増えますかねー。状況が許せば役者もやらせていただきたいですけど、一度でいいから一流の方々が大勢いらっしゃる現場でやってみたいですね。今後の自分の人生経験のために。