【今だから芸術を語ろう】関 孝之(「ながのアートミーティング」代表)

「ながのアートミーティング」代表
関 孝之

 

障害ある人の表現を想像してみよう、近づいてみようという力が

一つの文化を生むと僕は思っていて

そのきっかけとして『なんで?NANDE?な表現』を追求してみようと思う

 

長野県が主催する「ザワメキアート」展の実行委員長で、県内の福祉施設へワークショップを届けるNPO法人「ながのアートミーティング」の代表でもある関孝之さん。ご自身のfacebook上で『なんで?NANDE?な表現』という連載をしています。関さんの身近にいる障害ある人の“表現”に「なんで?と考えてみる」というコンセプト。ちょっと胸がざわめいたので、関さんにお話をうかがいにいきました。

 
 

「いいじゃん、頑張らなくても」「存在するだけで価値がある」という社会ができたら

 
 

――関さんはご自身のfacebookで『なんで?NANDE?な表現』という投稿を始められました。今日はこれについて伺いたいと思いやってきました。

 

 コロナで引きこもっているうちに、やってみようと思ったんですよ。シリーズ化しようかなと。引きこもっているとはいえ、週に1回は施設に出向いてアートワークを提供しているんだけど、そこで出会う人たちの『なんで?』と思う行為というか表現についてです。
 今、強度行動障害の人が精神科につながっています。強度行動障害はベースに自閉症があり、環境や周囲との関係性の中で破壊や自傷などの行為がどんどん荒れていく症状。薬で抑えたり入院したりするんだけど、それでは根本的な解決にはならない。環境や関係性を修正しないと、つまり福祉と教育、文化がもっと連携しないとそれはうまくいかないわけです。まだとても十分ではありませんが。たとえば学校も苦労はしているけれど、子どもをコントロールすることに長けた先生が評価され、また全体もそうなろうとしている。でもコントロール自体が障害ある人にとっては圧力で、行動をもっと悪化させてしまう。しかも現代の日本社会は「働かざるもの食うべからず」的な空気が蔓延しているでしょ。それも一つの価値観ですけど、それが障害ある人たちを枠にはめよう、コントロールしようという流れにつながっている。そこはひっくり返していかないと、彼らはちっとも幸せにならないし、もっと厄介なことになる。果たして社会にとって、それが幸せなのかと僕は思うんです。

 

――少なからず僕らでさえ暮らしていても、そういう社会に生きづらさを感じる部分はありますね。

 
 そうでしょ。僕が『なんで?NANDE?な表現』で始めたのは、さっき言った価値観にとらわれている人からしたら無視したい、スルーしたい、やめてほしい行動なわけです。クレヨンや油性ペン、通所施設の下駄箱の靴、家の中でも洗濯物、なんでもかんでも放り投げるSAKIさんのことを書きましたけど、それを問題行動、困った行為、障害特性という言い方もあるんですが、そう言っているうちは解決しない。これは切実な表現行為なんだというふうに捉えてほしい。だからこそ「なんで?」なんです。

 
 

 
 

 
 

――なんで「なんで?」なんですか?(苦笑)

 

 じゃあどうしてそういう行動をするのか。彼らの身近にいる福祉施設のスタッフに聞くと「さあ?」って答えるわけです。いや、僕だって「さあ?」って答えます。わからないかもしれないけれど、その行為の向こう側に何かの物語、意味があるんじゃないか、本人はしゃべってくれないから関係者がひたすら探っていく姿勢が大事なんじゃないの?ということなんです。対処療法的に対応するのではなく、立ち止まってご本人は何を感じ、何を求めているのか表現しているのかを考えてほしいのです。

 

――想像力してほしいということですね?

 
 うん、僕に言わせると妄想力。「ばらまく」のほかに、「ちぎる」「同じ絵を描き続ける」なども掲載しました。でもそれをやめさせようとすれば、場合によってはパニックを起こすし、スキを狙ってやるようになるし、ますますその行為にハマっていく。彼らに対する姿勢、僕はそれを「アートな眼差し」と前々から言っているんですけど、それが欠けた、ある価値観に縛られたわれわれは「まずいことだ」「やめてほしい」と見ているだけで、彼らにとっては切実な思いであり、苦しさの表現かもしれない。そこを汲み取る力が福祉や学校、医療の現場でも希薄になっている。先の長い話だけれど、想像してみよう、知ろうとしよう、近づいてみようという力が一つの文化を生むと僕は思っていて、そのきっかけにならないかな、ならないだろうなぁと思いながら、『なんで?NANDE?な表現』を追求してみようと思っているんです。
 
――それは、われわれ受け止める側の姿勢でもあるわけですね。

 
 もっと面白がる、楽しむ、そういう姿勢によって周りが変わっていくといいなあと思います。障害のある人たちにかかわる人たちの、制度をつくる人たちの眼差しが変わって、その先に社会が変わっていくといいなって。たかが僕の発信力で、「いいね」を40、50もらったところで変わるわけはないと思いながらやっているんです。「いいじゃん、頑張らなくても」「存在するだけで価値がある」という社会ができていかないかなぁと。今の政権も社会も死ぬまで働け!税金納めろ!経済成長だ!でしょ。でもそこからこぼれ落ちた人がいっぱいいる。そうした人びとを見殺しにしている社会に対し、地べたの蟻がビスケットをかじるくらいの抵抗として、「なんで?」なんです。でもこれ、広げると面白いかもしれないね。「安倍首相はなんで?」「自民党はなんで?」って攻撃的に叫ぶんじゃなく、「なんで?」と問うてみるのは。僕はアートに対しても「なんで?」って思うことがあるんですよ。どちらかと言えば、僕は表現行為、表現している姿に面白さを感じる。一般のアーティストでものたうち回りながら表現しようとしている姿はとても魅力的だし、面白いと思うんですね。

 
 

 
 

障害ある人の表現を見ていると

僕らが忘れてしまった感覚をくすぐってくれる

 
 

――関さんが障害ある人たちとのアートの取り組みを始めたのはどういうきっかけからですか?

 
 僕はずっと福祉の世界で生きてきて、実はアートなんてあずかり知らぬ別世界だったんですよ。けれど25年くらい前にどんでん返しのようにドーンと入ってきた。それまで身近な障害ある人たちは余暇時間に絵を描いたりしていたんですけど、稚拙な表現だという思い込みがあったんです。ところが障害者アートの情報がいろいろ入ってくる中で、仲間の作品を試しに全国の公募展に出したら入選したんですよ。「これをアートと言っていいんだ」と。僕の場合はそれがきっかけでアートの方に転換していったんです。でもよくよく障害の重い人の表現を見ていると、「人間はいつからアートを始めたの?」みたいなこと考えてしまうんです。アートというよりは表現といったほうがわかりやすいんですけど、人間が言葉を獲得する前の、太古の時代にアートの始まりみたいなことをやっていたわけです。障害ある人の表現を見ているとそこにつながる。つくづく考えさせられました。むしろ僕らの目の前で表現している人たちはアートなんて価値観に留まらず、ぶっ飛んでいて、もっと生々しくて、僕らが忘れてしまった感覚をすごくくすぐるものなんですよ。

 
――関さんにとって「表現」とはなんだと思いますか?

 
 人間だれしも内面に言葉にならない心の動き、もやもやしたものを抱えているじゃないですか。それが何かの瞬間に、しぐさになったり「あぁ」「おぉ」といった声になる。それが表現だと思います。周囲との関係性の中でそれに反応する表現があって、さらにそれに対する表現がある。そのやりとりがコミュニケーションじゃないですか。でも障害ある人の表現を受け止められない人もたくさんいて。たしかに言語化されないものには僕だってイライラするし、もやもやする。でもそのなかなか言葉で表現できないものがアートの世界にすごく反映されているんです。だからアートは人間が生きていく上で、とっても大事なものですよ。だけど今の日本はアートはある価値観に閉じ込められていて、重要視されてない。僕がかかわってきたのはとりわけ言葉を持たない、内面にはあるんだろうけど障害ゆえに言語として発せない人たち。コミュニケーションができない、周りも気持ちを汲み取ることができない人が圧倒的に多いんです。だからこそその表現は大事にされてほしい。 

 
 

 
 

 
 

――関さんは、「ながのアートミーティング」では障害ある皆さんとのアート活動に力を入れられてきました。

 

 長野県内の施設へワークショップを届ける形で、県内に種まきをしてきました。ただ僕らだけではとても人数が足りないので、興味を持ってもらえる方たちへの「アートサポーター養成講座」もずっとやってきているんです。そうやってネットワークをつくろうとしていましたし、「ながのアートミーティング」のメンバーはつながりのできた人たちという感じです。福祉の現場にもアートの取り組みを面白いと言ってくれる人たちもいる。けれど講座での経験を「自分の施設に持ち帰ってやってみます」と言ってくれるけど続かないんです。その人自身が施設の中で浮き上がっちゃうから。施設長の関心があれば広がるんですけど、そういう人がまだまだ少なすぎるのが現状です。
 ただここ4年、「ザワメキアート」展に集まってくる作品を見ると、少なからず影響も与えてきたのかなって。「これ、面白いんだよね」「これってアートだって言っていいんだ」と気づいて、応募してくださる関係者が増えてきたことは大事だと思うんです。僕らの活動が多少なりとも役に立ってきたなって思えるのはそこですね。

 

――長野県内でも、障害ある人の取り組みが少しずつですが広がりつつありますよね。

 

 徐々にですけどね。僕に対しても長野県の障害者アートの世界を引っ張ってきたという評価も聞くんだけど、自分ではそんなつもりはさらさらなくて「ただ面白い」だけでやってきました。こういうテーマの取材も受けますけど、どうしても偉そうにしゃべってしまうじゃないですか。それがいやなんです。重要なのは障害ある当事者が主役に踊り出ることで、そうでなければ僕の言っていること、やってきたことがウソっぽくなってしまう。目立ったり有名になる必要はないけれど、障害のある人が普通に尊重されて生きていかれる社会をつくらなければ、障害者アートが素晴らしいという評価も意味がない。ご本人が幸せになったかを常にチェックしていかないと、作品だけが一人歩きしてしまうのは誤ってしまうと思うんですよ。

 
 

 
 

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