[聞く/entre+voir #014]小田 時男さん (大町創造企画室)〜大町が芸術の街になる④

大町創造企画室 小田時男さん

 
 

町づくりは木工の仕事と一緒

長いスパンをイメージする必要がある

 

北アルプス国際芸術祭は、きっと大町の中にいくつか起きている市民活動の上に成り立っている。そういう土壌が生まれるキーマンの一人が、木工作家の小田時男さんだ。信濃大町に残る麻倉を再生・整備して大町のクラフト&アートの拠点とする麻倉プロジェクト、アメリカ・カリフォルニア州の街メンドシーノの作家たちとの芸術交流や展覧会などを牽引してきた。
 

自由で、開放的なアメリカン・クラフトに刺激されて

クラフトフェアまつもとを立ち上げに参加

 

◉小田さんはご出身はどちらですか?

小 田 僕は福井県福井市です。大学で木工を学びましたが、ちょうどヒッピームーブメントの、カウンターカルチャー的な考え方が起きて、いろんな意味で世の中が転換期を迎えたころでした。僕もその影響を受けて自分の手でつくりたいという気持ちが強くなって松本民芸家具系列の家具工房にお世話になったんですよ。

 

 

 

◉小田さんはアメリカのクラフトフェアと出合い、クラフトフェアまつもとの立ち上げに関わられたんですよね。
 
小 田 アメリカに行ったのは1984年。アメリカンクラフト全盛期のころ。民主党のカーター大統領が芸術振興を推し進めていたそうで、全米にクラフトフェアが広まっていったんです。それを生業にして、工房で作品をつくっては車で旅しながら売って歩くクラフト・ジプシーがけっこういたんですよ。

 

◉アメリカでクラフトフェアに出合われたきっかけは?

小 田 松本に本郷織物研究所という染屋さんがありますよね。当時から本郷さんは海外へも発信力が高くて、外国人女性が代わる代わる織りや絣の勉強に来ていたんです。その中の一人とたまたま知り合って。一緒に来ていた旦那さんは時間があるものだから、たまたま木が好きだったこともあって独立したばかりの僕のところで仕事を手伝ってくれていました。それで仲良くなって、今度は僕がアメリカに行ったんです。そのときにミネソタ州にミネアポリス・セントポールにある大学で彼が手伝っていたクラフト協会のフェアが行われていたんです。当時の僕にはすごく刺激的だった。日本の民芸は徒弟制度で、下積みが長くて1人前になるには時間がかかるイメージがあるでしょ。しかもある決まりの中で表現しないといけないから、長くいると、その世界から脱せられなくなると思い込んでいたんです。そういう生意気盛りのころですから自由で、開放的で、技術も高くて、多彩な表現方法を持っているように見えたんですね。それで帰国して仲間に松本でもできないか相談したんです。まだ数えるくらいだったけれど、木工や染め物、陶芸など独立した人もいて、やってみようよということになったんです。クラフトマンは一人の作業だけど一人の力には限界があるし、一つの大きなうねりの中で手仕事を残していかないといけないんじゃないかと、よく蒔田卓坪さんや三谷龍二さんと議論しましたね。

 

麻倉プロジェクトで考えたのは町の背景・歴史をきちっと押さえることの重要性
 

改装前の麻倉

 

改装後の麻倉

 

◉そこから大町とはどうつながっていったのでしょう?

小 田 僕はその後、朝日村でクラフト体験館という共同の木工作業所をつくって、独立して美麻村に引っ越したんですよ。だから美麻・松本・東京・アメリカみたいな感じで動いてました。大町に関わりができたのは村が合併してからで、いろんな方と知り合ううち、わちがいの渡邉充子さんの紹介で大町で工芸にまつわる町づくりができないか、麻倉をなんとかできないかと相談を受けたのが始まりです。それで麻倉プロジェクトを立ち上げて、建物を使えるようにして芸術や工芸の拠点にしようと考えました。ただ漠然とアート運動、工芸運動と言っても何をしたらいいかわからず、でも一つの建物に集中することで何かムーブメントにつながるんじゃないと。建物の持ってる存在感、安心感はすごく大事なんです。松本のクラフトフェアも、若いときはアンチ民芸でやってたけど、今考えると松本が民芸運動の拠点であったという安心感、プライド、街が持つ包容力がやっぱり重要だったとつくづく思うんです。大町でも町の背景をきちっと押さえないと、ただ新しいことを面白がってやっても根付かないと思ったわけです。
 

◉拠点をつくったことでアーティストが見える化する部分はありますよね。

小 田 そうです。それまでも大町にはクラフトの会があって、僕自身も誘われて入ったのが麻倉プロジェクトを立ち上げる原点になったわけです。当時は大町と周辺の八坂、美麻、小谷、白馬の作家で構成されていましたが、今では安曇野や松本からどんどん若い人たちが集まってくる。ですから僕は今も麻倉の役員ではあるけど運営にはタッチしていない。日々の運営は麻倉美術部を中心に若いつくり手たちがやりたいことを提案して回している。やっぱり若い人たちが出入りしたり定着し始めたということは一つの成果だと思うんです。それが街中に広がっていけばもっといい。アーティスト・イン・レジデンスも僕はいい事業だなと思っています。1年を通していろんなところからアーティストが集まって作品を見える形でつくって、それが街の中に展開していくのは大事ですよ。それに伴って商売してみたり、ゲストハウスを経営する若者も出てきている。ずっと大町の商店街の人たちに言ってきたのは、商店街として物が売れたいい時代に戻ろうとしても無理じゃないかということ。近郊の大手量販店に行けばすべての物がそろうわけで、人々に共感を得る街にするためには違うものを売りましょうと。それは心の拠り所だったり、アート作品に触れることで何か自分を見直すきっかけになったりという漠然とした言い方しかできなかったけれど。

 

10周年を迎えるメンドシーノとの芸術交流

北アルプス国際芸術祭の現代アートと両輪で

 

◉そのあとで携わられている大町創造企画室とはどういうプロジェクトですか?

小 田 創造企画室は町全体のことを覗いてみよう、何か仕掛けをつくってみよう、麻倉にちょっと違うコンセプトを入れて何かできないかなど、もう少し客観的に見る組織ですね。一昨年に立ち上げたばかりなものですから、まだたくさんの事業ができてるわけじゃないんです。造り酒屋の市野屋さんがいっぱい古い建物を持っていて、それを今後どうやって利用していこうか考える集まり。将来的に大町をどういう街にしていくかグランドデザインを考える集まり。とりあえずこんなことをやってみようという集まり。だからいろんなジャンルの人が参加しています。
 
 

メンドシーノアートセンター

交流の様子

 

麻倉でのメンドシーノとの交流展

 

麻倉でのメンドシーノとの交流展

 

◉大町創造企画室の大きな事業が、アメリカのメンドシーノとの芸術交流ですね。

小 田 メンドシーノはかつて漁業と林業で栄えた町でしたが大恐慌で町が衰退して、60年前は今の大町と似たような状況だったんです。そこにウィリアム・ザッカという芸術家が移り住んで、一つの古い建物を自分のアトリエにして細々と絵を売り始めるんですよ。ヒッピームーブメントもあって、自分たちの表現できるスペースを求めてサンフランシスコやパリから若いアーティストたちが来るようになった。彼らが定着して芸術活動やライフワークを展開することでメンドシーノが芸術の町に変わっていったんです。そして徐々に観光の町になっていった。海のシーフード、山のワイナリーが名物になって。まさしく食とアートの町ですよ。一人の芸術家の活動がきっかけで、今では州認定の町並み保存地区になった。その変化は時間をかけて起きたこと。だから大町もそうやって少しずつ何かやりたいという人が増えて、シャッターが開き、建物が手直しされながら町並みが整っていけばいいなと、向こうの作家とこっちから向こうに行った作家との展示を交互に行う形で交流をスタートさせたんです。
 
◉2017年で芸術交流も10年目になるんですね。

小 田 大町創造企画室では建物を再発見することと同時に、かつて日常で使われていた物を採掘しようということもやっているんです。それは「大町のしつらえ展」と言います。例えば市野屋商店さんやちょうじやさんのような大きな家には蔵があって、輪島塗や九谷焼、伊万里、唐津焼などいろんなものが眠っている。塩の道で伝わって来た物たちですよ。昔は冠婚葬祭とかいろんな場面で使っていた。しつらえ展ではそれらをベースに現代作家、近辺の工芸作家に協力してもらって、古い建物と古い工芸作品、または古い芸術作品の中に現代作家の作品を散りばめながら展覧会をやっています。10周年記念のメンドシーノ展では、そのしつらえ展的な要素も入れて、もっと大きな時間の交流をしたいと思っているんです。アメリカ人が日本を意識した作品があるんですよ。交流展としつらえ展をうまく組み合わせた形の演出ですね。

 

「しつらえ展」

 

2017年「工芸をめぐるふたつの町の国際交流展」松本市美術館

 

 
◉北アルプス国際芸術祭の期間中に開催されるわけですが、国際芸術祭への思いを教えてください。

小 田 国際芸術祭とは会期が同じだから協力できることは協力してやれればとは思いますが、基本的にコンセプトが違うので、大町ではこういうこともやっていると知ってもらえる機会になればいいなと思いますね。工芸やクラフトは日常的だけど現代美術は非日常。一つの町の中で両方あることによってバランスが取れるし、面白い。だから、わちがいさんやちょうじやさん、麻倉とかは大町の格式というかもともとあったプライドを見せられるし、大事にしたほうがいいと思います。
 国際芸術祭のような大きな仕掛けをすればどこからかお金を持っくることもできる。でも日々の経済活動ではなかなか現代美術は難しい。逆に工芸に関係するものが、食も含めて浸透していくことで少しずつ経済活動につながればいいかなとは思います。時間はかかりますよ。町づくりなんて一言で言っても20、30年かかる。それは林業的な考え方と同じ。木を植えて用材になるまで50年、100年かかる。そういう意味では昔の人の方が長いスパンで物事をイメージできていたかもしれない。木工の仕事は修行時代が長くて、刃物の技術習得だけでも時間がかかるし、そもそも木という素材が持っている時間が長い。それが30何年続いたクラフトフェア松本の要因だったかもしれない。木工が中心に始まった稀有なクラフトフェアですから。北アルプス国際芸術祭が何年続くかはわからないけれど、実施するほうもそういう視点で考えてほしいし、逆に楽しみでもありますよね。
 

小田時男 TOKIO ODA
1955年福井県生まれ。千葉大学を経て梶山木匠研究所に勤務。
82年にTokio Craft(JIO工房)設立。2010年には安曇野ペンギンハウスギャラリー開設。
制作のかたわら多くの展示会を開催・参加。
1980年にヨーロッパ各国・地中海周辺の家具調査、研究、
1982年に米国ミネソタ州にてクラフトフェスティバル視察。
1985年「クラフトフェアまつもと」をスタート、1987年まで事務局長を務める。
2004年にカリフォルニア州メンドシーノにおいてギャラリー視察し、
2007年メンドシーノ芸術交流プログラムをスタート。
また2008年には大町市にて麻倉プロジェクト発足。
2011年大町アート&クラフトセンター「麻倉」開設。
2015年大町創造企画室発足。

 
 

インフォメーション