「普通」の女性たちを描く「普通ではない」映画(のような得体のしれないもの) (『ハッピーアワー』)

 ケーブルカーが摩耶山を登っていく。木立を抜け、トンネルを抜けると神戸の街が見えてくる。4人の女性がなごやかに談笑している。いわゆるアラフォーにさしかかった仲の良い4人の女性たちが夜景の名所としても有名な掬星台でのピクニックに向かう姿から濱口竜介監督の『ハッピーアワー』はゆるやかに始まる。

 まだ梅雨の明けきらない6月の終わり7月の初め頃なのだろうか、せっかくのピクニックの日だというのに、曇空の掬星台から神戸の絶景を望むことができない。けれどもそのことに気を落とすようでもなく、まるで「うちらの未来みたい」に「何も見えへん」という冗談も飛び出す。

 それぞれに持ち寄ったお弁当を食べながら、彼女たちは楽しげにおしゃべりをはじめるのだが、私たち観客は、まさにこの『ハッピーアワー』がどこに向かおうとしているのか「何も見えへん」と思うかもしれない。何しろ、この映画は、5時間17分というそれだけでニュースになりうるほどに長い上映時間をもつ作品であり、さらには主演の4人はいずれも演技経験がないというのだから、私たち観客の不安は一層高まるかもしれない。

 しかし彼女たちのおしゃべりは私たちの不安をよそに続いていく。今度は山を越えて泊まりで有馬温泉に行こう、と。4人が各々手帳を取り出しスケジュールを確認し、1ヶ月ほど先のことになるのだろうか、「8月頭の月曜」の有馬温泉旅行が決まると、神戸の文化施設で働く芙美(三原麻衣子)が、自分でも「あんまりよく分かってない」ワークショップに3人の友人たちを誘う。若手のスタッフがはじめて企画したそのワークショップは「広報出遅れて、全然人集まってない」ので参加してもらえないか、というのだ。あかり(田中幸恵)はいち早く「面白そうやん」と応え、スケジュールを確認し「大丈夫、行けるわ」と即座に参加を決める。特段断る理由もない桜子(菊池葉月)と純(川村りら)も、あかりとともに「来週末」のワークショップに参加することになる。

 実際にそのワークショップの場面が描かれることになる(つまり映画のなかで「来週末」が来る)までには、少しの時間を要するのだが、この映画のもっとも魅惑的な場面のひとつがこのワークショップの場面なのだ。しかし、この場面もまた、まずは私たち観客を不安にさせるだろう。神戸出身で震災の復興ボランティアに行っていたという、見るからに胡散臭い「アーティスト」鵜飼(柴田修兵)を講師に行われる「「重心」って何だ?」という奇妙なタイトルのワークショップは、東北の沿岸に漂着した瓦礫を「立てていた」鵜飼が、何ともいかがわしくあるものを「立てる」ことから始まるからだ。さらには、主人公の4人の女性たちの日常のひとコマをスケッチするだけかに思われたこの場面が思いのほか長く続いていくと私たちの不安はさらに高まるかもしれない。いったい私は何を見ているのだろうか、これは映画なのだろうか、と。

 しかし、まさにこのいかがわしいワークショップをわけもわからず見つめ続けるうちに私たち観客は、そのいかがわしさも込みでワークショップそれ自体を楽しみ始めていることに気づくだろう。そして、このワークショップの場面を楽しく見ることができた観客にとって、5時間17分はこれまで経験したことのない「幸福な時間」となるはずだ。

 『ハッピーアワー』第1部の前半に位置するこのワークショップがいかに魅惑的であるかはここでは詳しく語らずにおく。実際に体験してほしいからだ。しかし、その魅惑のヒントとなるであろう濱口監督の言葉は引用しておこう。

 この作品は、2013年にデザイン・クリエイティヴセンター神戸(KIITO)アーティスト・イン・レジデンスとして招かれた濱口監督を講師に行われた「即興演技ワークショップ in 神戸」を土台に、ワークショップ参加者有志で製作された。はたのこうぼう(濱口竜介、野原位、高橋知由)による脚本は当初3つ用意されていたという。そのうちのひとつ『BRIDES(花嫁たち)』と題された脚本が最終的に選ばれたのだが(本作はもともと『BRIDES』という仮題のもと製作が開始された)、この脚本が選ばれた理由について、濱口監督は次のように述べている。

 脚本『BRIDES』初稿は「私たちと同じ世界に生きる、私たちとそう変わらない人たちである」と同時に「他者としてのわからなさ(それは世界の奥行きでもある)」を有するキャラクターたちを数多く持っていた。各人物は物語に奉仕する以上に「キャラ立ち」した存在であり、メインキャラクターの女性四人(あかり、桜子。芙美、純)のみならず、その周囲に配されたサブキャラクターたちもまた人物としての厚み・信憑性を既に有していた[略](「『ハッピーアワー』の方法」)

 『ハッピーアワー』は「私たちと同じ世界」の私たちの日常と「そう変わらない」日常が描かれるが、私たちが普段は直視しないでいる日常の「わからなさ」や「奥行」を、この映画をとおして私たちは見つめることになる。そして、上述のワークショップの場面がそうであるように、この映画の幾つかの場面は「物語(映画全体)に奉仕する以上に「キャラ立ち」した」場面として魅惑を有している。そうした場面は、4人の女性たちが各々の人生の「主人公」となるような主要な場面ではかならずしもないが、この映画のなかでまぎれもない「厚み・信憑性」を有している。『ハッピーアワー』は、「普通」の映画やドラマでも描きそうな、「普通」のアラフォー女性の仕事や家庭、人生にまつわる不安や悩みを描きながら、これまでの映画やドラマとは異なる別の映画、「普通ではない」映画なのだ。

 松本CINEMAセレクトは、「映画の未来」賞の名で、『ハッピーアワー』を2015年の松本CINEMAセレクト・アワード最優秀作品賞に選出し、2016年2月21日にまつもと市民芸術館小ホールで上映する。しかし、この作品が「映画の未来」を体現しているとか、「未来の映画」はみなこの作品のようになるということではないだろう。映画監督がアーティスト・イン・レジデンスで地方都市に移り住み、その地で演技の素人である市民とワークショップを重ね映画を撮るという試みなら、今後日本の各地で実践されることもあるだろう(いや、もっと同様の実践があってもいいはずだ)。しかし、『ハッピーアワー』のように「普通ではない」映画が撮られることはきっとないだろう。

 いささか唐突だが、仏教用語で「未来」とは、「あの世」や「来世」を指すという。『ハッピーアワー』が「映画の未来」だとすれば、それは、この作品が「この世」の映画ではなく「あの世」の映画だということだろう。仏教的な世界観を描いているというのではもちろんない。この映画は「この世」のどの映画とも似ていないのだ。もはや映画ですらないのかもしれない。

 そのような「作品」を見る/体験する稀有なチャンスを逃してよいどんな理由が存在するだろうか。チャンスは長野県では(現在のところ)1回かぎりである。


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■関連サイト
映画『ハッピーアワー』公式サイトは、こちら
松本CINEMAセレクト上映会『ハッピーアワー』情報[まつもと市民芸術館公式サイト・公演情報]は、こちら
各種割引情報は、こちら
NPO法人コミュニティシネマ 松本CINEMAセレクト公式サイトは、こちら


■引用文献:
・濱口竜介「『ハッピーアワー』の方法」.濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社, 2015年)所収。 http://sayusha.com/catalog/books/art/p=9784865281347c0074


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